第9話 遺された約束

本院の特別病棟。 そこには、末期の「膵管内乳頭粘液性腫瘍すいかんないにゅうとうねんえきせいしゅよう」を患いながら、頑なに手術を拒み続ける一人の男がいた。


男の名は、神崎 徹(かんざき とおる)。 かつて、皇 征四郎(すめらぎ せいしろう)統括部長と肩を並べた伝説の外科医であり、今は隠居生活を送っている。


「神崎先生、このままでは癌が浸潤し、余命は半年もありません」

真壁 俊介(まかべ しゅんすけ)が必死に説得を試みるが、神崎は窓の外を見つめたまま、力なく首を振った。


「死ぬのが怖いわけじゃない。……ただ、これ以上、この腹を切りたくないだけだ」


神崎の腹部には、かつて何度も命を繋いできた戦士の証のような、何本もの手術痕が刻まれていた。 そこへ、冴島 零(さえじま れい)が音もなく入室した。


「冴島 零だったな。君の噂は聞いている」

神崎の鋭い視線が零を射抜くが、零は無造作にカルテをめくり始めた。


「先生。あなたが手術を拒むのは、再建の難しさを知っているからでしょ」

零の言葉に、神崎は自嘲気味に笑った。


「私の膵管は度重なる手術でボロボロだ。誰が繋いでも、膵液が漏れて腹膜炎を起こす。外科医の最期を、そんな無様な姿で終えたくない」


膵臓の手術において、最も恐ろしいのは「膵液瘻すいえきろう」だ。


あらゆるタンパク質を溶かす膵液が漏れ出せば、周囲の血管を食い破り、命を奪う。 かつての名医である神崎だからこそ、自分の体の限界を誰よりも正確に理解していた。


「……一時間。一時間で繋ぎ切ってみせるわ。膵液が一滴も漏れない、完璧な再建を」


零の挑発的な宣言に、神崎の目に微かな光が宿った。 数日後、神崎は自ら同意書にサインをし、オペ室の台に横たわった。


「患者名、神崎 徹(かんざき とおる)。術名、残存膵全摘、および膵管空腸吻合(すいかんくうじょうふんごう)」


零のメスが、古い手術痕をなぞるように正確に走り始めた。 腹腔内は予想を上回るほどの強固な「癒着ゆちゃく」に覆われていた。


「瞳、循環を安定させて。……真壁、癒着剥離を手伝って。この硬さは、生半可な力じゃ剥がれない」


「はい! 慎重に、かつダイナミックに剥がします!」


浅野 瞳(あさの ひとみ)が麻酔器のモニターを凝視する中、零の剥離鉗子はくりかんしが、臓器と臓器の境界線をミリ単位で切り拓いていく。 一時間半をかけてようやく癒着を突破し、零は膵臓の深淵へと辿り着いた。


「ここからが本番よ。膵管の径はわずか一・五ミリ」


零は顕微鏡を覗き込み、髪の毛よりも細い糸を手にした。 膵管の粘膜と小腸の粘膜を、一針ずつ、まるで絹糸で刺繍を施すように縫い合わせていく。


「一針の間隔はコンマ五ミリ。……真壁、糸を引くテンションを一定に保って」


「了解……。これほどまでの精度、指先が震えそうだ」


見学室では、皇がモニターを凝視していた。 かつてのライバル、神崎の命を、自分が見捨てた技術で救おうとしている零に、言葉を失っていた。


「……最後の一針。結紮けっさつ


零が手を止めた瞬間、時計の針は約束通り、再建開始から一時間を指していた。 膵液が漏れる兆候は、どこにもない。


「……オペ、終了。恵、覚醒させて」


手術から数日後、神崎は病室で零を呼び止めた。

「……見事だった。冴島、お前は私の『遺した約束』を果たしてくれた」


神崎はかつて、自分の技術で救えなかった愛弟子のことを語り始めた。 その弟子の術後合併症こそが、彼が最も恐れていた膵液漏だったのだ。


「先生。約束なんて、生きてなきゃ果たせないわ」


零はそう言い残し、次の急患を知らせるPHSを手に取った。 伝説の外科医からそのメスを認められた零。 しかし、彼女の背後には、本院の権力構造そのものを揺るがす、さらなる巨大な影が忍び寄っていた。






膵液瘻すいえきろうと膵再建の解説


1. 膵管内乳頭粘液性腫瘍(IPMN)

膵管すいかんの中に粘液を産生する腫瘍ができる病気です。 放置すると膵臓癌すいぞうがんに進行する可能性が高く、手術が必要となりますが、今回のケースのように以前に手術歴があると、腹腔内の組織が癒着して非常に手術が困難になります。



2. 膵液瘻すいえきろう

膵臓の手術において最も警戒すべき合併症です。 膵液は「強力な消化液」であり、タンパク質を溶かす性質があります。 縫合部から膵液が漏れ出すと、自分自身の臓器や太い血管を溶かしてしまい、大出血を起こす原因となります。



3. 膵管空腸吻合すいかんくうじょうふんごう

切り取った膵臓の切り口と小腸を繋ぎ合わせ、膵液が腸へ流れるようにする手技です。 膵管は非常に細く、かつ脆弱もろいため、高度な顕微鏡下手術マイクロサージャリーの技術が必要とされます。 零が行ったのは、まさに「外科医の極致」とも言える緻密な作業でした。

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