第8話 凍てつくメス

明花大学医学部付属病院の外科医局。 静まり返ったフロアに、軍靴のような硬い足音が響き渡った。


「今日から第一外科の客員教授として着任した、氷室 慎太郎(ひむろ しんたろう)だ」


皇 征四郎(すめらぎ せいしろう)統括部長の隣に立つ男は、彫刻のように整った顔立ちに、一切の感情を排した瞳を宿していた。 彼は北欧の心臓外科センターで「精密機械」と恐れられた、理論至上主義の天才医師だった。


「冴島君、氷室教授は君の『野性的』な手法とは対極にいる男だ。本物の合理的医療を見せてもらうといい」

皇の言葉を、冴島 零(さえじま れい)はカルテに目を落としたまま聞き流した。


その直後、緊急搬送のサイレンが鳴り響く。 運び込まれたのは、巨大な「心臓粘液腫しんぞうねんえきしゅ」が心臓の弁に挟まり、突然の心不全を起こした一人の青年だった。


「患者名、東条 蓮(とうじょう れん)。二十二歳。心腔内腫瘍しんくうないしゅようによる血流遮断状態」


真壁 俊介(まかべ しゅんすけ)が迅速にエコー画像を映し出す。 心臓の中で揺れる巨大な腫瘍が、血液の出口を塞ごうとしていた。


「冴島先生、すぐに開胸を! 心停止まで猶予がありません!」


「待て。その術式は非効率だ」

割って入ったのは、氷室だった。


彼はタブレットを操作し、瞬時に術前シミュレーションを構築してみせた。

超低侵襲ちょうていしんしゅうのポートアクセス法を用いる。開胸は最小限。術後の回復を考えれば、それ以外の選択肢はない」


「氷室先生、この腫瘍の脆さを見て。少しでも触れれば砕けて全身の血管に飛び散るわ。直接目で見ながら、一気に取り除くべきよ」

零の反論に、氷室は冷たい笑みを浮かべた。


「君の『勘』よりも、私の『計算』が正しいことを証明しよう。このオペは私が執刀する」


二人の天才が対峙する中、手術が始まった。 氷室のメスは、定規で引いた線のように正確に、少年の胸にわずかな穴を開けていく。


内視鏡カメラを通して映し出される心臓の内部。 氷室の指先は、ミリ単位の計算に基づき、無駄のない動きで腫瘍へと近づく。


「……っ。氷室先生、腫瘍の基部が予想以上に柔らかい。吸引の圧で崩れます!」 助手に入った真壁が声を荒らげる。


「計算通りだ。……いや、これは……」

氷室の瞳が初めて揺れた。腫瘍が心臓の拍動に耐えきれず、先端から崩落を始めたのだ。


「腫瘍片が散った! 脳梗塞のうこうそくが起きるわよ!」

モニターを見守っていた浅野 瞳(あさの ひとみ)が叫ぶ。


その時、手洗い場からスクラブを終えた零が無言で入室した。 彼女は氷室を横にどかすと、躊躇なく少年の胸骨を大きく切り開いた。


「計算で命が救えるなら、誰も死なないわ」


零の指先が、心臓の中に飛び散った腫瘍の破片を、目にも止まらぬ速さで一つずつ摘出していく。 肉眼でしか捉えられない、光の反射と組織の質感。


「五番のプロリン糸。……恵、心停止液をフラッシュして。一瞬だけ心臓を止めるわよ」


「わかってるわ! 今よ!」


零は心臓の壁に残った腫瘍の根を、周囲の健全な組織ごと鮮やかに削り取った。 崩落し、死へと向かっていた少年の時間は、零のメスによって再び繋ぎ止められた。


「……全摘出。瞳、再鼓動」


電気ショックと共に、心電図が再び美しい波形を描き始める。 氷室は、血に濡れた零の手元を見つめたまま、立ち尽くしていた。


「……私の計算に、誤差があったというのか」


「計算は間違ってなかった。でも、あなたは『生きた心臓』の気まぐれを計算に入れてなかった」


零はマスクを外し、凍りついたままの氷室を置いてオペ室を出た。 皇は、呼び寄せた最強の刺客さえも圧倒した零の姿に、忌々しそうに拳を握りしめた。


「命は数字じゃない。熱なのよ」


廊下に響く零の足音は、迷いなく次の患者へと向かっていった。






心臓粘液腫(しんぞうねんえきしゅ)の解説


1. 心臓粘液腫しんぞうねんえきしゅとは

心臓の中にできる良性の腫瘍ですが、非常に「脆く、柔らかい」のが特徴です。 心臓の中でゼリー状の腫瘍が揺れ動くため、それが突然、血液の出口である「べん」に挟まると、血流が止まって突然死を引き起こします。


2. 腫瘍塞栓しゅようそくせん

劇中で起きた最も恐ろしい合併症です。 脆い腫瘍の破片が血流に乗って流れていくと、脳の血管に詰まって「脳梗塞のうこうそく」を、体の血管に詰まって「臓器壊死ぞうきえし」を引き起こします。 そのため、摘出の際は腫瘍に一切刺激を与えず、一塊として取り出す極めて繊細な技術が求められます。


3. 低侵襲ていしんしゅう手術 vs 直視下手術

氷室が行おうとした「ポートアクセス法」は、傷が小さく術後の回復が早い利点がありますが、術野が狭く緊急時の対応が遅れるリスクがあります。 一方、零が選択した「胸骨正中切開きょうこつせいちゅうせっかい」は、術野を広く確保でき、確実に腫瘍を回収できる、確実性を重視した術式です。

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