第7話 巨額のオファー
明花大学医学部付属病院の正面玄関に、見慣れない外国車が数台列をなした。 中から現れたのは、世界最大の医療投資財団「ギルフォード・メディカル」の代理人たちだった。
彼らの目的は、今や「東洋の神の手」として世界中にその名が広まりつつある冴島 零(さえじま れい)の引き抜きだった。 外科統括部長の皇 征四郎(すめらぎ せいしろう)は、理事長室で彼らと向き合い、眉をひそめた。
「年俸十億、さらに専用の研究室と最新設備を完備したオペ室を自由に使わせる……。破格の条件だな」
「彼女の技術は、我が財団が進める人工知能補完型外科手術の、唯一無二のサンプルになるのです」
代理人の男は冷淡に微笑み、零の執刀データの価値を説いた。
その頃、零はいつもと変わらず、真壁 俊介(まかべ しゅんすけ)と共に外来診察を続けていた。 そこへ、一人の老人が車椅子で運ばれてくる。
患者は、かつてこの病院で用務員として働いていた門倉 健太(かどくら けんた)。 病名は「広範な
「冴島先生、他の病院では年齢を理由に断られました。……でも、私はまだ、孫の結婚式を見たいんです」
門倉の震える声に、真壁はカルテを見つめて絶句した。
「零先生、これは……。血管がボロボロで、人工血管を縫い付ける土台さえ残っていません」
そこへ皇が代理人たちを連れて現れ、零に冷たく言い放った。
「冴島君、その患者は看取りに回せ。君には今、ギルフォード財団からのオファーが来ている。こんな成功率ゼロの手術でキャリアを汚す必要はない」
零は皇の言葉を無視し、門倉の痩せた手を優しく握った。
「門倉さん。結婚式、何月?」
「……来月です」
「そう。なら、来週には退院して準備を始めなきゃね」
零は立ち上がり、真壁に視線を送った。
「真壁、オペ室を確保して。世界一高い給料を蹴飛ばす準備はできているわ」
手術は、ギルフォード財団の技術顧問たちが見守る中で開始された。
「患者名、門倉 健太(かどくら けんた)。七十八歳。術名、
モニターには、いつ破裂してもおかしくないほど膨れ上がった大動脈が映し出された。 血管の壁は石灰化してガラスのように脆く、針を通した瞬間に崩れ落ちる危険があった。
「瞳、体温を二十八度まで下げて。循環を一時的に停止させるわよ」
「了解。零、リミットは三十分。それを超えたら、この患者の脳は死ぬわよ」
浅野 瞳(あさの ひとみ)が冷厳に告げる。 零のメスが、脆弱な血管を切り開き、巨大な血栓を取り除いた。
「真壁、ここよ。この一ミリだけ、まだ生きた組織が残っている」
零は、指先の感覚だけで石灰化していない血管の壁を見つけ出した。 そこへ、特殊な極細の糸で人工血管を縫い付けていく。
「……信じられない。あのボロボロの血管に、なぜこれほどの精度で針を通せるんだ」
見学室の技術顧問たちが、驚愕のあまり声を失った。
三十分という極限のタイムリミットの中、零は五本の枝分かれした血管をすべて人工血管へと再建した。
「遮断解除。瞳、心臓を温めて!」
ゆっくりと体温が戻り、モニターに再び力強い波形が刻まれた。 手術は完璧な成功を収めた。
術後、財団の代理人が零に詰め寄った。
「なぜ、あれほどのリスクを冒してまで……。我が財団に来れば、もっと効率的に多くの命を救えますよ」
零は血に汚れた手袋を脱ぎ捨て、冷ややかに彼らを見据えた。
「効率で命を測るなら、機械に執刀させればいいでしょ」
「私は、目の前の一人のために、この手があると思っているの」
零はそう言い残し、門倉の術後管理のためにICUへと向かった。
十億円の契約書は、ゴミ箱へと放り出された。 真壁はその背中を追いながら、自分が一生ついていくべき道が、そこにあると確信していた。
胸腹部大動脈瘤と人工血管置換術の解説
1.
心臓から続く最大の血管である大動脈が、胸からお腹にかけて広範囲に膨らんでしまう病気です。 放置すれば必ず破裂し、即死に至ります。 特に高齢者の場合、
2.
血管を縫う間、血流を完全に止める必要があります。 しかし、そのままでは脳や臓器に酸素が行かずダメージを負うため、体温を意図的に下げることで細胞の活動を抑え、臓器を守ります。 この状態を維持できる時間は非常に限られており、外科医には神業とも言えるスピードが求められます。
3.
大動脈からは、腎臓や肝臓、腸へと行く重要な血管が枝分かれしています。 大動脈を人工血管に替える際、これらすべての枝を一つずつ正確に人工血管へと繋ぎ直さなければなりません。 これを失敗すれば、術後に腎不全や
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