第6話 聖域のメス
本院での生活が始まって一週間。 冴島 零(さえじま れい)の元に、産婦人科から一通の緊急コンサルテーションが届いた。
運び込まれたのは、妊娠二十八週目の妊婦、鳴海 汐里(なるみ しおり)。 彼女の腹部には、妊娠によるホルモン変化で急速に巨大化した「
「零、このケースは非常にまずいわ。がんが破裂しかけているけれど、今すぐ手術をすれば、お腹の赤ちゃんは助からない可能性が高い」
浅野 瞳(あさの ひとみ)が、モニターに映し出された造影CT画像を指差しながら唇を噛む。 産婦人科部長の観月 玲子(みづき れいこ)が、冷徹な表情で零に告げた。
「冴島先生、これは母体優先で動くべき案件よ。腫瘍を摘出するために、まずは中絶を選択するのが本院のガイドラインです」
「……そのガイドライン、誰が決めたの?」
零は画像から目を離さず、氷のように冷たい声で問い返した。 観月は一瞬言葉に詰まったが、すぐに強い口調で続ける。
「医学的常識よ。胎児を維持したままこのサイズの肝切除を行えば、術中の出血制御ができず、母子ともに命を落とすわ」
「両方、救えばいいだけでしょ」
零は立ち上がり、白衣をなびかせて部屋を出た。 背後で観月が「傲慢だわ!」と叫ぶが、零は振り返りもしない。
手術当日。オペ室には産婦人科と外科の合同チームが招集された。 皇 征四郎(すめらぎ せいしろう)統括部長が見学室からマイクを入れる。
「冴島君、これは君の独断だ。もし一人でも命を落とせば、君の准教授の椅子は今日で終わりだ」
「椅子なんて、最初から興味ないわ。恵、全身麻酔。ただし、胎児への影響を最小限にするために、薬剤の透過率をミリ単位で調整して」
「了解。私の技術を信じなさい」
零は、大きく膨らんだ汐里の腹部に、神聖な祈りを捧げるようにメスを入れた。 「患者名、鳴海 汐里(なるみ しおり)。術名、
最大の難関は、巨大な子宮が術野を圧迫し、肝臓の裏側にある
「真壁、子宮を優しく支持して。一ミリも動かさないで」
「はい! 慎重に、かつ確実に保持します」
真壁 俊介(まかべ しゅんすけ)の手に力がこもる。 零は、わずか数センチの隙間に剥離鉗子(はくりかんし)を滑り込ませ、腫瘍と血管を切り離していく。
「……っ、肝静脈から出血! 吸引急いで!」
「凛、血圧が下がっているわ! 赤ちゃんの心拍も落ち始めた!」
オペ室に緊張が走る。 出血を止めなければ母親が死に、血圧を上げすぎれば子宮への血流が乱れ、赤ちゃんが死ぬ。
「……見えた。この細い枝を一本ずつ止めるわよ」
零は超音波吸引器を置き、素手で肝臓の裏側を探った。 彼女の指先は、膨らんだ子宮の拍動と、母親の血管の拍動を、別々のリズムとして正確に感じ取っていた。
「今、命が二つ、私の指先に触れている」
零は持針器を握り直し、驚異的な速さで出血点を縫い閉じていく。 出血が止まり、赤ちゃんの心拍計が規則正しい音を取り戻した。
「腫瘍、全摘出。子宮への接触は最小限で済んだわ」
「……信じられない。本当に両方救ったのね」
観月が呆然と呟く中、零は丁寧に腹壁を縫合していった。 手術後、汐里の病室を訪れた零に、彼女は涙ながらに感謝の言葉を述べた。
「先生、ありがとうございます。この子の鼓動、まだ聞こえます……」
「お礼は、無事に産んでからにして。私は、当たり前のことをしただけ」
零はそう言って、照れ隠しのようにすぐに病室を後にした。 それを見守っていた真壁は、改めて確信した。
この人は、組織の壁さえも、命を救うための「術野」に変えてしまうのだと。
妊娠中の肝細胞癌と胎児温存手術の解説
1. 妊娠中の
妊娠中に癌が見つかるケースは稀ですが、妊娠に伴うエストロゲンなどの女性ホルモンの増加により、腫瘍が急速に大きくなることがあります。 腫瘍が巨大化すると、腹腔内の圧力が上がり、癌が破裂して母子ともに命の危険にさらされる「
2.
通常、高度ながんの手術を行う際は、母体の救命を優先して人工流産や早産を誘発させてから執刀するのが標準的です。 胎児を子宮内に留めたまま肝臓を大きく切り取る手術は、麻酔管理、体位調整、術中出血の抑制など、あらゆる面で極めて高い難易度を誇ります。
3. 麻酔の重要性
妊婦の手術では、麻酔薬が
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