明花大学医学部付属病院 本院

第5話 本院への帰還

徳川(とくがわ)理事の救命劇から一週間。 第三分院の解体案は白紙となり、代わりに一通の辞令が届けられた。


「冴島 零(さえじま れい)を本院の外科准教授として迎え入れる……」


院長室で辞令を読み上げる久保田 誠一(くぼた せいいち)の手は、小刻みに震えていた。


「零、これで行くのね。あの化け物たちが巣食う本院へ」


隣で浅野 瞳(あさの ひとみ)が、心配そうに零の横顔を覗き込む。 零は表情一つ変えず、愛用の聴診器を鞄にしまった。


「どこにいてもやることは同じよ。目の前の命を繋ぐだけ」


「僕も行きます。冴島先生の助手として、まだ学ぶべきことがありますから」


真壁 俊介(まかべ しゅんすけ)もまた、本院のエリートという立場を捨て、零の影として歩む決意を固めていた。 本院の巨大な白い巨塔を見上げ、零は再びその土を踏む。


そこには、外科統括部長の皇 征四郎(すめらぎ せいしろう)が、冷ややかな笑みを浮かべて待っていた。


「おかえり、冴島君。君という『劇薬』が本院をどう変えるか、楽しみにしているよ」


「変えるつもりなんてないわ。私は、汚れた場所を掃除しに来ただけよ」


零は皇の横を通り過ぎ、新しく割り当てられた診察室へと向かった。 復帰初日に持ち込まれたのは、本院の教授陣が三ヶ月間、結論を出せずにいた難症例だった。


患者は若き天才バイオリニスト、千景 奏(ちかげ かなで)。 彼女の胸には、心臓を圧迫する巨大な腫瘍が巣食っていた。


「患者名、千景 奏(ちかげ かなで)。二十歳。術名、巨大縦隔(じゅうかく)腫瘍摘出、および上大静脈(じょうだいじょうみゃく)再建」


零はカルテを一瞥し、即座に執刀を宣言した。 不可能を可能にする彼女のメスが、再び本院で解禁される。


腫瘍は心臓の真上にある縦隔(じゅうかく)に広がり、全身から心臓へ戻る血液の幹線である「上大静脈」を完全に包み込んでいた。 少しでも傷つければ即死、腫瘍を残せば彼女は二度とバイオリンを弾けない。


「冴島准教授。この手術は、我が大学のライブデモンストレーションとして全学に公開される」


見学室から皇の声が響く。 彼は、零の失敗を全医師の前で晒すか、成功させて手柄を横取りするかの賭けに出たのだ。


「瞳、循環停止の準備を。十秒以内に血管を繋ぎ替えるわよ」


「無茶を言うわね。……でも、あなたのテンポには慣れてるわ。行くわよ!」


零のメスが、胸骨を正中切開し、心臓の鼓動を剥き出しにする。 腫瘍は予想以上に血管と一体化しており、どこからが腫瘍でどこからが血管か、肉眼では判別不能だった。


「……真壁、血管を遮断して。今から人工血管をバイパスさせる」


「了解! 遮断、開始!」


真壁の操作と同時に、零の針が光速で動く。 血液が止まっている時間は、脳へのダメージに直結する。


一秒、二秒……。見学室の医師たちが息を呑む中、零はミリ単位の縫合を繰り返した。


「九秒……十秒! 遮断解除!」


血流が再び再開し、人工血管が力強く脈打ち始めた。 零の集中力は、もはや機械の精度を超えていた。


「腫瘍、全摘出完了」


零がピンセットで掴み出したのは、奏の将来を奪おうとしていた無慈悲な塊だった。 モニターには、力強い鼓動が映し出される。


「……バイタル、安定。脳波も正常よ。零、また勝ったわね」


瞳が誇らしげにモニターを見上げた。 手術後、零はライブ映像のカメラに向かって、言い放った。


「技術は権力のためにあるんじゃない。命のためにあるのよ」


本院の重鎮たちが沈黙する中、零の帰還は、明花大学医学部付属病院に革命の火を灯した。




縦隔腫瘍と上大静脈再建の解説


1. 縦隔じゅうかく腫瘍とは

左右の肺に挟まれ、心臓や大動脈、気管などが収まっている空間を「縦隔じゅうかく」と呼びます。 ここに腫瘍ができると、周囲にある生命維持に不可欠な臓器を圧迫・浸潤しんじゅんするため、摘出には極めて高度な技術が必要です。


2. 上大静脈じょうだいじょうみゃく

頭や腕からの血液を心臓に戻す、非常に太い静脈です。 この血管を一時的に遮断する際は、血流が止まることで脳浮腫のうふしゅなどが起きないよう、極めて短時間で処理を終える必要があります。


3. 循環停止とバイパス

血管を再建する際、一時的に血流を止めることを「遮断しゃだん」と言います。 劇中で零が行ったのは、血流を止めている間に人工血管を素早く繋ぎ合わせ、新しい血液の通り道(バイパス)を完成させる手技です。

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