第3話 プロの矜持

明花大学医学部付属病院、第三分院の医師控室。 真壁 俊介(まかべ しゅんすけ)は、椅子に深く腰掛け、自らの震える指先を見つめていた。


「……あんな執刀、見たことがない」


真壁は本院で「腹腔鏡ふくくうきょうのプロ」と称えられ、最新の医療機器こそが正義だと信じて疑わなかった。 しかし、昨日零が見せた、出血の海の中で血管を縫い上げる指先の動きは、機械の精度を遥かに凌駕していた。


そこへ、コーヒーカップを手にした冴島 零(さえじま れい)が入ってくる。 彼女は真壁の視線に気づくこともなく、窓の外を眺めながら一口喉を鳴らした。


「冴島先生。昨日のオペ……なぜ病院長の命令を無視してまで血管を繋いだんですか」


真壁の問いに、零は視線を動かさぬまま、静かに口を開いた。


「切るべき場所を切って、繋ぐべき場所を繋ぐ。外科医の仕事は、それだけでしょ」


「……あなたは、組織に消されることを恐れないのか」


零はゆっくりと真壁の方を向き、その瞳に微かな嘲笑を浮かべた。


「組織が私を消しても、私の技術は消えないわ。あなたは、機械がなければ何も救えないの?」


その言葉は、真壁のプライドを鋭く突き刺した。 翌日、分院に搬送されてきたのは、複雑な肝血管瘤かんけっかんりゅうを抱えた一人の少年だった。


「患者名、佐々木 翼(ささき つばさ)。十歳。術名、肝動脈瘤切除かんどうみゃくりゅうせつじょ、および自家静脈移植じかじょうみゃくいしょくによる血管再建けっかんさいけん


零の宣言を聞きながら、真壁は自ら助手として手洗いに向かった。 本院からは「手出しをするな」という暗黙の了解が出ていたが、今の彼には関係なかった。


「冴島先生、第一助手は僕にやらせてください」


零は真壁の目を見て、短く頷いた。

「いいわ。瞳、麻酔をお願い」


浅野 瞳(あさの ひとみ)は、真壁の覚悟を感じ取り、優しく微笑んだ。

「了解。血圧管理は完璧にやってあげるわよ」


手術が始まると、術野には少年の細い血管が、蜘蛛の糸のように張り巡らされていた。 動脈瘤どうみゃくりゅうは今にも破裂しそうで、わずかな振動さえも許されない極限の状況だった。


「……バイポーラ。真壁、そこを三ミリだけ引いて」


「はい。……ここですね」


真壁の動きは、かつてないほど正確だった。 彼は零の動きを完璧に予測し、まるで彼女の左手であるかのように振る舞った。


「真壁。……悪くないわよ」


零のその一言に、真壁の胸に熱いものが込み上げた。 エリートとしての虚栄心ではなく、一人の外科医としての誇りが、今、彼の中で目覚めていた。


だが、手術の終盤、病院長の久保田 誠一(くぼた せいいち)がオペ室に駆け込んできた。

「中止だ! 本院から直々に連絡があった! その患者は本院に転送しろ!」


久保田の顔は真っ青で、本院の権力に怯えきっていた。 しかし、真壁がその前に立ちはだかった。


「院長、今この手を離せば、この子は転送中に死にます」


「真壁君! 君まで何を言っているんだ!」


「僕は医者です。目の前の命を見捨てる命令には従えません」


真壁の声は、オペ室全体に響き渡った。 零は、その背中を見ながら、迷いなく最後の一針を血管に通した。


「……繋がったわ。瞳、フラッシュして」


「血流再開。バイタル、極めて安定。……お疲れ様、二人とも」


手術を終えた真壁は、マスクを外して深く息を吐いた。 彼は、自分が本院という温室で、いかに狭い世界にいたかを痛感していた。


「……冴島先生。僕は、あなたのような外科医になりたい」


「そう。なら、せいぜい腕を磨くことね。私は、追いつかれるつもりはないから」


零はそう言い残し、いつものように足早にオペ室を後にした。 真壁は、その背中を追いかけるように、深々と頭を下げた。


組織の牙は依然として彼らを狙っていたが、第三分院には今、確かな絆が芽生え始めていた。








内臓動脈瘤ないぞうどうみゃくりゅう血管再建術けっかんさいけんじゅつの解説


1. 内臓動脈瘤ないぞうどうみゃくりゅうとは

動脈の一部がコブのように膨らんでしまう病気です。 肝臓へ行く血管にできる「肝動脈瘤かんどうみゃくりゅう」などは、自覚症状がほとんどありませんが、一度破裂するとお腹の中で大出血を起こし、致死率は極めて高くなります。 特に子供の場合、血管が細く脆弱(ぜいじゃく)なため、大人以上に繊細な技術が求められます。




2. 自家静脈移植じかじょうみゃくじかいしょく

動脈の一部を切り取った後、その欠損部分を補うために、患者さん自身の別の場所(足など)から健康な「静脈」を採取して移植する手法です。 人工血管を使うこともありますが、子供の場合は体の成長に合わせて血管も成長する必要があるため、自分の生きた血管を使う「自家移植じかいしょく」が望ましいとされます。




3. 血管再建の技術

血管を縫うには、髪の毛よりも細い糸(プロリン糸など)を使用します。 一針の幅が数ミリずれるだけで、血管が細くなって詰まったり(狭窄きょうさく)、縫い目から血が漏れたりします。 劇中で零と真壁が協力して行ったのは、肉眼では捉えきれないほど微細な世界での「裁縫さいほう」であり、最高レベルの集中力と連携が必要な作業でした。

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