第2話 組織の牙

明花大学医学部付属病院 本院


外科統括部長室の重厚なデスクで、白鳥 慶一郎(しらとり けいいちろう)は一枚のレポートに目を落としていた。


それは、第三分院で行われた大塚代議士の手術記録だった。

肝右葉・尾状葉全摘出かんうようびじょうようぜんてきしゅつ、および肝動脈再建かんどうみゃくさいけん……。これをわずか四時間で完遂したというのか」


白鳥は椅子の背もたれに深く体を預け、眼鏡の奥の目を細めた。 第三分院の院長である久保田 誠一(くぼた せいいち)は、電話越しに声を震わせている。


「白鳥先生、信じられない光景でした。冴島君のメス捌きは、もはや人間の領域を超えています」


「ふむ、久保田君。その冴島零という女、面白い素材のようだ」

白鳥の唇が、捕食者のように僅かに歪んだ。


翌朝、分院の廊下を歩く零の前に、一台の高級黒塗りの車が止まった。 中から現れたのは、外科教授の佐藤 健司(さとう けいいちろう)だった。


「冴島君、白鳥統括部長がお呼びだ。今すぐ本院へ同行したまえ」


「お断りするわ。今日は外来の予約が詰まっている」

零は足を止めることなく、冷淡に言い放った。


「これは命令だ! 統括部長の意向は、この病院の絶対的な掟なのだぞ!」

佐藤の怒鳴り声が廊下に響くが、零は振り返りもしない。


その日の午後、第三分院のオペ室には異様な緊張感が漂っていた。 予定されていた胆石たんせき除去の手術が、本院からの横槍で急遽変更されたのだ。


運び込まれたのは、天野 隆造(あまの りゅうぞう)病院長の縁故である実業家。 病名は膵頭部癌すいとうぶがん、それも他院で切除不能と判断された末期症例まっきしょうれいだった。


「冴島先生、これは罠です。本院はあなたに失敗をさせ、追い出すつもりなんです」 看護師長の鬼頭 雅子(きとう まさこ)が、鋭い視線で零を諭す。


「罠だろうと何だろうと、患者が運ばれてきたなら切るだけよ」

零は既に、手洗い場でスクラブを始めていた。


隣には、いつもと変わらぬ冷静な表情で浅野 瞳(あさの ひとみ)が立っている。


「零、今回の相手は手強いわよ。本院から監視の医師も送り込まれているわ」


「そう。見せつけてあげればいいのよ、本物の医療というものを」


オペ室に入ると、そこには見慣れない医師の姿があった。 本院から派遣された腹腔鏡のプロ、真壁 俊介(まかべ しゅんすけ)だ。


「冴島先生、白鳥部長からの伝言だ。この手術が成功すれば、本院への復帰を検討すると」


「興味ないわ。……患者名、神田 鉄平(かんだ てっぺい)。術名、膵頭十二指腸切除術すいとうじゅうにしちょうせつじょじゅつ、および腹腔動脈合併切除ふくくうどうみゃくがっぺいせつじょ


零は執刀前の宣言を終えると、瞳と視線を合わせた。

「私なら、その命を繋げる」


零のメスが、迷いなく実業家の腹部へと突き立てられた。


手術は序盤から困難を極めた。 癌は腹腔動脈の根部にまで浸潤し、血管を傷つけずに剥離するのは至難の業だ。


「バイポーラ。……瞳、門脈を一時遮断するわよ。三、二、一」


「了解。血圧低下に備えるわ。零、急いで!」


零の指先が、大動脈から枝分かれする細い動脈の周囲を、紙を剥がすように繊細に動く。 真壁はその神懸かり的なスピードに、息をすることさえ忘れていた。


「信じられない……。解剖学的死角にある動脈を、なぜこれほど正確に捉えられるんだ」


「無駄口を叩いている暇があるなら、吸引を回して」

零の声は、氷のように冷たく響いた。


手術開始から三時間、零は不可能と言われた腫瘍を、血管から完全に見事に分離させた。 しかし、その時、本院の見学室から天野院長の冷徹な声が響いた。


「冴島君、その血管は繋がなくていい。組織の規律を乱す者には、相応の結末が必要だ」


天野は、手術をわざと失敗させ、零を追放するための口実を作ろうとしていたのだ。 オペ室全体が、絶望的な沈黙に包まれる。


「……誰に言っているの? 私のメスを止められるのは、私だけよ」

零は天野の声を遮るように、持針器を手に取った。


「五番のプロリン糸。……繋ぐわよ。一針の妥協も許さない」


零の針が、極細の血管をミリ単位の狂いもなく縫い合わせていく。 血流が再開し、白く死にかけていた腸管が、鮮やかな赤みを取り戻した。


「……バイタル安定。零、完璧よ」

瞳の声が、勝利の凱歌のように響いた。


手術を終えた零は、見学室にいる天野と白鳥を見上げ、小さく鼻で笑った。


「私、失敗しないので」


白鳥は、自らの計画を上回る零の技術に、恐怖と高揚感を同時に抱いていた。

「冴島零……。牙を剥くなら、それなりの覚悟をしてもらうぞ」


組織の巨大な牙が、ついに冴島零の喉元にまで迫ろうとしていた。 だが、彼女はただ一言、心の中で呟いた。


「「群れているから、本質が見えなくなるのよ」」






膵頭部癌すいとうじゅうにしちょうせつじょじゅつ膵頭十二指腸切除術ふくくうどうみゃくがっぺいせつじょの解説


1. 膵頭部癌(すいとうぶがん)とは

膵臓(すいぞう)は胃の裏側にある細長い臓器で、消化液の分泌と血糖値を調節するホルモンの放出を行っています。 膵臓の右側の膨らんだ部分を「膵頭部」と呼び、ここに癌ができると、近くを通る胆管を圧迫して「黄疸(おうだん)」を引き起こすのが特徴です。 膵臓の周囲には重要な血管が密集しているため、癌が血管に浸潤しやすく、発見時には手術が困難なケースも少なくありません。





2. 膵頭十二指腸切除術すいとうじゅうにしちょうせつじょじゅつ(PD)

今回零が行った術式は、外科手術の中でも最も複雑で侵襲(体への負担)が大きい手術の一つです。


切除範囲

膵頭部、十二指腸、胆嚢、胆管の一部、そして時には胃の一部も一緒に切り取ります。


合併切除

今回のように癌が血管(腹腔動脈ふっくうどうみゃくなど)に食い込んでいる場合、その血管も一緒に切り取り、人工血管や自前の血管を使って繋ぎ直す「再建」が必要になります。


再建の難しさ: 切除後は、残った膵臓、胆管、胃をそれぞれ小腸に繋ぎ直さなければなりません。特に膵臓と小腸の縫合は、膵液(タンパク質を溶かす強い液体)が漏れると周囲の組織を溶かしてしまうため、極めて精密な縫合技術が求められます。




3. 腹腔動脈(ふくくうどうみゃく)

劇中で零が繋ぎ直した「腹腔動脈」は、肝臓、胃、脾臓、膵臓などに血液を送る大元となる非常に重要な血管です。 ここを繋がないということは、それらの臓器への血流を絶つことを意味し、死に直結します。 零が病院長の命令を無視して血管を繋いだのは、目の前の命を救うという医師としての絶対的な正義感によるものでした。

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