ゼロの執刀医

SAKURA

明花大学医学部附属病院 第三分院

第1話 神の手を持つ流れ者

明花大学医学部付属病院めいかだいがくいがくぶふぞくびょういん 第三分院



そこは本院から遠ざけられた医師たちが集まる、医師の墓場と呼ばれる場所だった。


第一オペ室に足を踏み入れた冴島 零(さえじま れい)は、無機質な照明の下で横たわる患者を見つめていた。 手洗い場でのスクラブ中、隣に立つ麻酔科医の浅野 瞳(あさの ひとみ)が低い声で囁く。


「瞳、導入は三パーセント重めにして、循環動態をガチガチに固めて」


「了解。あなたの無茶に付き合えるのは、私くらいのものね」


二人が自動ドアを抜け入室すると、看護師長の鬼頭 雅子(きとう まさこ)が鋭い目つきで器械台を整えていた。


「冴島先生、器械出しは私が務めます。この病院で一番、私の手が速い。あなたのスピードに遅れることはありません」


「そう。期待してるわ」


零は患者の傍らに立ち、執刀前の宣言を冷徹に行う。


「患者名、大塚 幸三(おおつか こうぞう)。術名、肝門部かんもんぶ領域胆管癌りょういきたんかんがんに対する、肝右葉・尾状葉全摘出かんうようび じょうようぜんてきしゅつ、および門脈・肝動脈合併切除再建術」


周囲の医師たちが、その術名の重さに息を呑む。 不可能を可能にするための戦いが、今始まる。


鋭いメスが皮膚を正確に走り抜けた。


「メス。正中切開、上腹部から下腹部へ」


「バイポーラ、止血急いで」


零の指示は、風を切るような鋭さを持っていた。 皮膚、皮下脂肪、腹直筋鞘。幾層にも重なる組織を、零は迷いなく切り開いていく。


電気メスの焼ける臭いと、吸引器が吸い上げる体液の音がオペ室に充満する。


「腹膜開。開創器を固定して。ブックウォルターで術野を確保」


零の指先が、複雑に絡み合った内臓の隙間へと滑り込んでいく。 見学室では、外科教授の佐藤 健司(さとう けんじ)と、腹腔鏡のプロである真壁 俊介(まかべ しゅんすけ)がモニターを凝視していた。


「なんて速さだ。解剖学的構造を完全に把握している。いや、それ以上か」


デジタル拡大された映像を必要とせず、彼女の肉眼と指先が肉体の深淵を暴いていく。


肝十二指腸靭帯かんじゅうにしちょうじんたいの授動に入る。クーパー、ピンセット。……瞳、グリソンしょう)を露出させるわよ」


「バイタルは安定しているわ。いつでも行って」


鬼頭の動きに淀みはなく、指示が出る一瞬前に適切な器具が零の掌に吸い込まれる。 零はメスを置き、剥離鉗子を手にした。


肝門部かんもんぶ、そこは肝動脈かんどうみゃく門脈もんみゃく胆管たんかんが三つ叉の矛のように複雑に入り組む聖域だ。 そこには大塚の命を蝕む、強固に癒着した腫瘍が居座っている。


胆嚢管たんのうかんをクリップ。胆嚢たんのうを肝床から剥離する。……ここからが本当の戦いよ」


零の狙いは、肝管の奥深くに居座る巨大な腫瘍を削り出すことだ。 腫瘍は門脈の分岐部を完全に抱き込み、あたかも血管の一部であるかのように同化していた。


「ハイドロディセクションを行う。二十シーシーのシリンジを。生理食塩水せいりしょくえんすい、用意」


高圧の水を組織のわずかな隙間に噴射し、腫瘍と血管の境界を強制的に浮き上がらせる。


腫瘍しゅようが門脈に三センチにわたって食い込んでいる」


「瞳、平均血圧を六十まで落として。出血を最小限に抑えたい」


「無茶言わないで。……でも、やってみるわ」


瞳が点滴の流速を繊細にコントロールし、患者を低血圧麻酔の状態へと導く。 零の手元では、超音波吸引器ちょうおんぱきゅういんきがキィィィィという高周波音を立てていた。


先端が振動し、血管を傷つけることなく腫瘍細胞だけを粉砕して吸い取っていく。


「一ミリ……。この一ミリの剥離層はくりそうを外せば、門脈は破綻する」


零の集中力は極限に達し、額に浮かぶ汗を鬼頭が完璧なタイミングで拭う。 術野は深さ十五センチ、手元がわずかに狂えば、代議士の命はその瞬間に尽きる。


「血管鉗子かんしを用意。万が一に備えて、プロリン糸を五本並べておいて」


だが、その時だった。


「っ! 腫瘍の裏側、右肝動脈うかんどうみゃくの壁が癒着で紙のように薄くなっている!」


零が叫んだ瞬間、術野が鮮血で真っ赤に染まった。 動脈性出血どうみゃくせいしゅっけつ、凄まじい勢いで血液が噴出し、モニターの視界をゼロにする。


「吸引、三本! 早く、術野が見えない!」


「血圧低下、四十! 零、このままじゃ心停止するわよ!」


見学室の佐藤が立ち上がり、マイクに向かって怒鳴り散らした。


「中止だ! すぐにインオペ(閉腹)しろ! ガーゼパッキングで圧迫あっぱく止血して、すぐに閉じろ!」


「このままではテーブルデスだぞ! 分院で死なれては困る!」


しかし、零は動じない。


「閉めてどうするの? 腫瘍を残せばこの患者は三ヶ月持たない」


零は溢れ出る温かい血の中に、迷わず右手を突き入れた。


「……捕まえた」


指先の感覚だけで、破綻した肝動脈の基部をピンポイントで圧迫し、噴出を止める。


「サテンスキーを。……五番のプロリン糸。持針器じしんきに装填して。早く!」


「本気なの!? この血の海の中で縫合するなんて!」


真壁がモニター越しに絶叫するが、零の手は止まらない。 彼女は、左手で出血点を押さえながら、右手一本で持針器を自在に操った。


「見えなくても、構造は頭に入っている。私の指先が血管の叫びを聞いているわ」


血管の壁は炎症によりボロボロだが、零は針を刺す一瞬、自らの呼吸を止めた。


「一針……二針……三針……。……結紮けっし。瞳、血圧戻して!」


直径二ミリに満たない血管の裂け目を、彼女は盲目下で完璧に塞いでいく。 ゆっくりと手を離すと、血液が本来のルートを通って肝臓へと流れ始めた。


「バイタル回復。血圧、八十、九十……百に戻ったわ。零、成功よ」


瞳が安堵の息を吐き出す中、零は再び淡々とメスを動かし始める。 その後、右肝切除を完了し、残った左胆管を空腸へと繋ぐ極めて緻密な再建術に入った。


「五ミリ間隔で縫合ほうごうしていく……。瞳、もう一踏ん張りよ」


「ええ、バイタルは私が守り切るわ。心置きなく縫いなさい」


最後の一針を縫い終え、完璧な止血を確認して閉腹を完了した。 時計の針は、開始からわずか四時間を指していた。


零は血に汚れた手袋を脱ぎ捨て、誰に言うでもなく呟いた。


「私なら、その命を繋げる。……私、失敗しないので」


オペ室を出て行く零の背中を、見学室の医師たちは呆然と見送った。 第三分院に、既存の秩序を覆す天才が降臨した瞬間だった。











肝門部領域胆管癌かんもんぶたんかんがんの解説


1. どのような病気か

肝臓で作られた胆汁(消化液)を十二指腸まで運ぶ管を胆管と呼びます。 この胆管のうち、肝臓の出口付近である肝門部かんもんぶに発生する癌が「肝門部領域胆管癌かんもんぶりょういきたんかんがん」です。 この場所は、肝臓へ入る重要な血管(門脈もんみゃく肝動脈かんどうみゃく)が複雑に枝分かれする場所であり、がんが周囲の血管を巻き込みやすいため、外科手術において最も難易度が高い部位の一つとされています。





2. なぜ切除不能と言われるのか

劇中で外科部長たちが匙を投げたのには理由があります。


血管への浸潤しんじゅん

癌が門脈や肝動脈などの主要な血管を抱き込むように成長するため、癌を取り除こうとすると血管を傷つけ、致死的な大出血を起こすリスクが極めて高いからです。


解剖の複雑さ

肝門部は人によって血管の走り方が微妙に異なるため、論文通りの手術が通用しません。


広範な切除が必要

癌を完全に取り切るためには、肝臓の半分以上を切り取る大規模な手術が必要となり、術後の肝不全(肝臓が機能しなくなること)のリスクが非常に高いのです。





3. 劇中で行われた高度な術式

冴島 零が行った手術には、以下の高度なポイントが含まれていました。


肝右葉・尾状葉全摘出かんうようびじょうようぜんてきしゅつ

癌に侵された肝臓の右半分と、その奥にある尾状葉びじょうようという扱いにくい部分をすべて取り除きました。


門脈・肝動脈合併切除再建もんみゃくかんどうみゃくがっぺい せつじょさいけん

癌が血管を巻き込んでいたため、血管ごと癌を切り取り、残った血管同士を繋ぎ合わせる(再建さいけんする)という、血管外科の技術も必要とされる手技です。


ハイドロディセクション(水圧剥離)

生理食塩水せいりしょくえんすいの圧力を利用して、目に見えないほど薄い血管の壁と癌の境界を剥がす技法です。

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