第3話 衝突
中環のバーは、真希が指定した。
ビルの23階。
窓の外に、ビクトリア・ハーバーが見える。
健一は10分早く着いた。
カウンターに座る。
ウイスキーを頼む。
氷が溶けていくのを見ていた。
「待った?」
真希の声。
黒のワンピース。
昨日のランタオ島とは違う。
「少しだけ」
真希が隣に座る。
バーテンダーに広東語で何か言う。
ジントニックが出てくる。
しばらく、2人とも黙って飲んだ。
窓の外で、スターフェリーが光の点になって動いている。
「昨日のこと」
真希が言った。
「ごめんね。急に一人になりたいとか言って」
「いや」
「でも、聞けてよかった」
真希がグラスを傾ける。
「健一が逃げたってこと」
「……ああ」
「それで全部が分かったわけじゃないけど」
真希がこちらを見た。
「少し、楽になった」
「楽に?」
「私のせいじゃなかったんだって」
健一は何も言えなかった。
---
「ねえ」
真希が言った。
「健一は、私に何を期待してるの」
「期待?」
「わざわざ香港まで来て、私に会って」
真希がジントニックを飲み干した。
「答え合わせがしたかったんでしょ。じゃあ、その先は?」
健一は、窓の外を見た。
対岸の九龍。
光の帯。
「正直に言う」
「うん」
「最初は、答え合わせだけのつもりだった」
「最初は?」
「でも、お前に会って——」
「会って?」
「やり直せるかもしれないって、思った」
真希が、グラスを置いた。
音が、やけに大きく響いた。
「やり直す」
真希が繰り返した。
「そう」
「28年経って」
「ああ」
「東京と香港で」
「なんとかなると思った」
真希が笑った。
でも、目は笑っていなかった。
「健一らしいね」
「どういう意味だ」
「自分の都合のいいように考えるところ」
健一は黙った。
「28年前もそうだった」
真希が言った。
「健一は自分が怖いから別れた。私の気持ちは聞かなかった」
「……」
「今も同じ。健一がやり直したいと思ったから、やり直せると思った。私の気持ちは聞いてない」
「だから今——」
「聞いてない」
真希が遮った。
「健一は、自分の答え合わせがしたかっただけだよ」
---
健一は、何も言えなかった。
真希は正しい。
ずっと、自分のことしか考えていなかった。
28年前も。
今も。
「……すまなかった」
「謝らないで」
真希の声が少し震えた。
「謝られると、許さなきゃいけない気がする」
「許さなくていい」
「そういう問題じゃないの」
真希がこちらを向いた。
目が赤かった。
「私は許したいの。でも、許したら、また期待してしまう」
「……」
「また期待して、また裏切られて、また自分を責めて——」
「裏切らない」
「信じられない」
真希がきっぱりと言った。
「健一を信じる自信が、私にはもうない」
---
沈黙。
バーの中で、ジャズが流れている。
ピアノの音。
低く、静かな旋律。
「真希」
健一は言った。
「俺は、お前に許してほしいわけじゃない」
「じゃあ何」
「お前が自分を責めるのを、やめてほしい」
真希が、少し目を見開いた。
「28年間、お前は自分を責めてたんだろう」
「……」
「それは、俺のせいだ」
健一は言った。
「俺が逃げたから。俺が何も言わなかったから。お前は、自分のせいだと思った」
「……」
「でも、違う。お前は何も悪くなかった」
真希は、何も言わなかった。
「俺が怖かっただけだ。お前と一緒にいる未来が。お前を幸せにできないかもしれないってことが」
「……そんなの」
「だから逃げた。お前からじゃない。自分から」
健一は言った。
「お前は、選ばれなかったんじゃない。俺が、選べなかったんだ」
---
真希の目から、涙がこぼれた。
声は出さなかった。
ただ、涙だけが流れた。
健一は、何もしなかった。
抱きしめなかった。
手も触れなかった。
ただ、隣にいた。
---
どれくらい経ったか分からない。
真希が、涙を拭いた。
「……ずるいよ」
「何が」
「そういうこと、28年前に言ってほしかった」
「ああ」
「言えなかったの?」
「言えなかった」
「なんで」
「分からなかったから」
健一は言った。
「自分が何から逃げてるのか、28年かかって、やっと分かった」
真希が、小さく笑った。
「遅いよ」
「ああ」
「遅すぎる」
「ああ」
「もう、取り返しつかないよ」
「……分かってる」
---
真希が、2杯目を頼んだ。
ジントニック。
健一もウイスキーをおかわりした。
2人とも、しばらく黙って飲んだ。
「ねえ」
真希が言った。
「なんだ」
「答え合わせ、できた?」
健一は考えた。
「……分からない」
「分からない?」
「答えが出たかどうか、分からない」
真希が、窓の外を見た。
「私は、少しだけ分かった気がする」
「何が」
「28年間、私が抱えてたもの」
真希が言った。
「『選ばれなかった』っていう呪い」
「……」
「でも、今日、健一の話を聞いて思った」
真希がこちらを向いた。
「私は選ばれなかったんじゃない。健一が選べなかっただけ」
「……ああ」
「それは、私のせいじゃない」
「違う。お前のせいじゃない」
「うん」
真希が頷いた。
「やっと、そう思える」
---
「真希」
健一は言った。
「なに」
「やり直すことは、できないのか」
真希は、少し考えた。
「できないと思う」
「……そうか」
「28年は、長すぎた」
真希が言った。
「私たち、もう別の人間になってる」
「……」
「パリにいた私と健一は、もういない」
健一は、何も言えなかった。
「でも」
真希が言った。
「今日、会えてよかった」
「……」
「答え合わせ、できたから」
真希が笑った。
今度は、目も笑っていた。
少しだけ。
---
「帰るね」
真希が立ち上がった。
「ああ」
「明日、何時の飛行機?」
「午後3時」
「そう」
真希が鞄を手に取った。
「見送りは?」
「いい」
「そうだよね」
真希が歩き出す。
3歩進んで、振り向いた。
「ねえ、健一」
「なんだ」
「モンマルトルの階段のこと」
「……」
「私、あのとき言いかけたの」
「何を」
「『ねえ、私たちってさ、このまま一緒にいられるのかな』って」
健一は、息を呑んだ。
「でも、健一が怖い顔したから、やめた」
「……」
「あのとき、最後まで言ってたら、何か変わってたのかな」
健一は考えた。
「分からない」
「だよね」
真希が笑った。
「分からないよね。28年経っても」
真希がドアに向かう。
「じゃあね、健一」
「ああ」
「元気でね」
「お前も」
真希が出ていく。
ドアが閉まる。
健一は、カウンターに残った。
ウイスキーを飲み干す。
窓の外で、香港の夜が光っている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます