第2話 ズレ


その夜、健一は眠れなかった。


ベッドに横になっても、天井を見つめるだけだった。


午前2時17分。


スマホが光った。


WeChat。


真希からだった。


---


―さっきは、ごめん。—


―変なこと言って、勝手に帰って。—


―取材、まだ続きあるよね?—


―明日、時間ある?—


---


健一は、メッセージを見つめた。


「取材の続き」。


そういう体裁を、真希は選んだ。


それが、真希なりの距離の取り方だと分かった。


返信を打とうとして、指が止まった。


何を書けばいい?


「大丈夫だよ」?


「気にしないで」?


どれも嘘だった。


5分。


10分。


健一は、結局こう打った。


---


―明日、空いてる。—


―どこでも行く。—


---


送信した。


既読はすぐについた。


返信は来なかった。


でも、既読がついた。


それだけで、健一は少しだけ息がつけた。


---


翌日、真希からメッセージが来た。


午前10時。


---


―ランタオ島、行ったことある?—


―大仏があるところ。—


―観光客は多いけど、山の上は静か。—


―取材のネタにもなると思う。—


---


健一は、すぐに返信した。


---


―行ったことない。—


―行こう。—


---


MTR東涌線で東涌駅まで。そこからゴンドラに乗って、昂坪(ゴンピン)へ。


ゴンドラの中で、真希は窓の外を見ていた。


眼下に海が広がっていた。島々が点在し、貨物船がゆっくりと動いていた。


「香港って、海が多いんだね」


健一が言った。


「うん。島だから」


真希は短く答えた。


会話が途切れた。


ゴンドラは、ゆっくりと山を登っていく。


健一は、昨夜のことを考えていた。


午前2時17分のメッセージ。


「取材の続き」という言葉。


真希は、なぜランタオ島を選んだのだろう。


街中ではなく、島。


人混みではなく、山の上。


何かを、避けようとしているのか。


それとも——


「ねえ」


真希が言った。


「昨日のこと、忘れて」


健一は真希を見た。


真希は、まだ窓の外を見ていた。


「私、変なこと言った。28年前のこととか、選ばれなかったとか。そういうの、忘れて」


「忘れられない」


健一は、自分でも驚くほど早く答えていた。


真希が振り向いた。


「なんで」


「大事なことだから」


真希は、何も言わなかった。


ゴンドラが、山頂に近づいていく。


---


昂坪に着いた。


巨大な天壇大仏が、青空の下に座っていた。


観光客が写真を撮っている。中国語、韓国語、英語が飛び交っていた。


真希は大仏には向かわず、脇道に入っていった。


「こっち」


健一はついていった。


細い道を5分ほど歩くと、人の姿がなくなった。


木々が風に揺れていた。


遠くで鳥の声がした。


ベンチがあった。


真希は座った。


健一も、隣に座った。


「ここ、たまに来るの」


真希が言った。


「考え事したいとき」


「一人で?」


「うん」


香港の街が、遠くに見えた。


高層ビルが、霞の中で揺れていた。


「健一はさ」


真希が言った。


「パリのこと、覚えてる?」


「覚えてる」


「2週間で、どこが一番、印象に残ってる?」


健一は考えた。


パリ。1996年。


たった2週間だったけど、あの2週間は特別だった。


「サン・マルタン運河」


健一は答えた。


「夜、二人で座って話したあの場所」


真希は少し首を傾げた。


「運河?」


「うん。覚えてない? ホテルの近くにあった運河沿いのベンチ。夜中まで話し込んだじゃん」


真希は黙っていた。


数秒。


「ごめん、あんまり覚えてない」


健一は、胸の奥で何かが揺れるのを感じた。


「覚えてない?」


「うん……運河には行ったと思うけど、そんなに印象に残ってない。ごめんね」


健一は、何も言えなかった。


あの夜は、健一にとって特別だった。


真希の横顔が、街灯に照らされていた。水面が、光を反射していた。二人で将来のことを話した。「いつか一緒に暮らせたらいいね」と、真希が言った——


いや。


待て。


本当に真希が言ったのか?


それとも、自分がそう言ってほしかっただけなのか?


「じゃあ、真希は何を覚えてる?」


健一は聞いた。


真希は少し考えた。


「モンマルトルの階段」


「階段?」


「うん。サクレ・クール寺院に上がる途中の階段。健一が息切れしてたやつ」


健一は記憶を探った。


階段。確かに上った気がする。でも、そんなに印象に残っていない。


「あそこで、健一が言ったの」


真希が続けた。


「『お前といると、どこに行っても楽しい』って」


健一は覚えていなかった。


言った気もするし、言っていない気もする。


「俺、そんなこと言った?」


「言った。だから覚えてる」


真希は、遠くを見ていた。


「あの言葉、ずっと覚えてた。28年間」


健一は黙っていた。


自分にとって特別だった場所は、真希にとってはそうでもなかった。


自分が覚えていない言葉が、真希にとっては28年間残り続けていた。


記憶は、同じ形をしていなかった。


「俺たち」


健一は言った。


「同じ2週間を過ごしたのに、覚えてることが違うんだな」


「そうだね」


真希は静かに答えた。


「私ずっと、健一の記憶と、私の記憶は同じだと思ってた。でも、違うんだね」


風が吹いた。


木々が揺れた。


「ねえ」


真希が言った。


「健一は、なんで私と別れたの?」


健一の心臓が跳ねた。


この質問が来ることは、分かっていた。


でも、こんなに早く来るとは思っていなかった。


「……」


言葉が出なかった。


「28年間、ずっと考えてた」


真希は続けた。


「何がいけなかったんだろうって。私の何が足りなかったんだろうって」


「真希のせいじゃない」


「じゃあ、何?」


健一は、自分の手を見た。


49歳の手。皺が増えた。


21歳のとき、自分は何を考えていたのか。


「分からない」


正直に言った。


「本当に、分からない。あの頃の俺は、何も考えてなかった。将来が怖かった。真希と一緒にいると、その怖さが増す気がした。だから——」


「逃げた?」


「……そうかもしれない」


真希は、立ち上がった。


健一を見下ろした。


「逃げたんだ」


「……うん」


真希の目が、光っていた。


怒り? 悲しみ? 分からなかった。


「28年間、私はずっと自分を責めてた。私のどこがいけなかったんだろうって。でも、健一が逃げただけだったんだ」


「真希——」


「ちょっと、一人にして」


真希は歩き出した。


木々の間に消えていく。


健一は追いかけなかった。


追いかけてはいけないと思った。


ベンチに座ったまま、健一は空を見上げた。


青かった。


雲が、ゆっくりと流れていた。


---


15分後、真希が戻ってきた。


目が少し赤かった。


でも、泣いた跡は見えなかった。


「ごめん」


真希が言った。


「感情的になった」


「謝らないで」


健一は立ち上がった。


「俺が悪い。28年前も、今も」


真希は何も言わなかった。


二人は、並んで歩き出した。


大仏の方へ。


観光客の喧騒が、少しずつ近づいてきた。


「ねえ」


真希が言った。


「明日、何してる?」


「何もしてない」


「じゃあ、また会える?」


健一は真希を見た。


真希は前を向いたまま歩いていた。


「会える」


健一は答えた。


「どこでも行く」


真希は小さく笑った。


笑ったけど、目は笑っていなかった。


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