第1話 再会

2024年4月12日、金曜日。午後3時28分。


香港国際空港、到着ロビー。


---


佐伯健一は、税関を抜けた後30秒ほど立ち止まった。


到着ロビーは人で溢れていた。出迎えの家族、ツアーガイドのプラカード、タクシー運転手の呼び込み。広東語と英語と北京語が混じり合い、どこか懐かしいアジアの喧騒が耳を覆った。


健一は自分のキャリーケースを確認した。黒い、小型の、一泊二日用。


二泊三日の予定だが、荷物は一泊分しかない。いつでも帰れるように。そう思って詰めたわけではない。そう思っていないと信じたかった。


スマートフォンを取り出す。


真希からのメッセージは、昨夜のままだった。


「明日、15時に中環のカフェでいい? 場所送るね」


その下に、Google Mapsのリンク。


健一はリンクを三度タップしようとして、三度やめた。場所は昨夜のうちに確認している。中環駅から徒歩四分。海沿いの、小さなカフェ。


窓際の席を予約してある、と真希は書いていた。


---


エアポートエクスプレスの車内で、健一は窓の外を見なかった。


香港の景色が流れていく。高層ビル、海、また高層ビル。パリとは違う。当たり前だ。パリと同じ場所など、パリにしかない。


真希は、なぜ香港にいるのか。


SNSで見つけた時、プロフィールには「香港在住」とあった。美術評論家。アジアの現代美術を専門にしている。それは検索でわかった。


わからないのは、それ以外の全部だ。


28年前、真希はパリにいた。ソルボンヌで美術史を学んでいた。卒業したら日本に帰ると言っていた。東京の美術館で働きたいと言っていた。


香港の話など、一度もしなかった。


---


午後4時12分。


中環(セントラル)、カフェ「The Curator」。


---


健一は約束の時間より15分早く着いた。


カフェの前で、2分間、立ち止まった。


ガラス張りの外観。中が見える。白い壁、木のテーブル、観葉植物。客はまばらだった。


真希の姿は、見えない。


当然だ。まだ15分前だ。


健一は腕時計を見た。15時47分。違う、14時47分だ。時差の計算を間違えた。いや、間違えていない。日本との時差は一時間。香港の方が一時間遅い。だから今は——


計算ができない。


深呼吸をした。もう一度、腕時計を見た。14時47分。日本時間なら15時47分。つまり、香港時間では14時47分。


約束は15時。


あと13分ある。


---


健一は近くのベンチに座った。


キャリーケースを足元に置く。スマートフォンを取り出す。ロック画面を見る。14時48分。あと12分。


12分間、何をすればいい。


真希に「着いた」とメッセージを送るべきか。いや、早すぎる。15分前に「着いた」と送るのは、待ちきれなかったと言っているようなものだ。


待ちきれなかったのか?


違う。飛行機が予定より早く着いただけだ。エアポートエクスプレスが空いていただけだ。道に迷わなかっただけだ。


全部、偶然だ。


---


健一は、3週間前のメールのやり取りを思い出した。


最初のメールを送ったのは、3月18日だった。検索してから三日後。


「林真希様 突然のご連絡、失礼いたします。佐伯健一と申します。パリ時代にお会いしたことを覚えていらっしゃいますでしょうか」


書き出しを17回書き直した。


「覚えていらっしゃいますでしょうか」


この一文を入れるかどうかで、2時間迷った。


入れなければ、「覚えているに決まっている」という傲慢に見える。入れれば、「覚えていないかもしれない」という不安を晒すことになる。


結局、入れた。


返信は、翌日の朝に届いた。


「佐伯くん! もちろん覚えてるよ。びっくりした。元気だった?」


「佐伯くん」。


28年前と同じ呼び方だった。


---


14時53分。


---


あと7分。


健一は立ち上がった。ベンチに座っていられなかった。


カフェの前を通り過ぎる。中を見ない。見たら、入ってしまいそうだった。


角を曲がる。海が見えた。ビクトリア・ハーバー。対岸に九龍の高層ビルが並んでいる。


風が強い。四月の香港は、東京より少し暖かい。


健一は海を見た。


28年前のことを考えた。


---


1996年8月15日。


あの夜、真希が帰った後、健一は窓を開けた。


パリの夜風が入ってきた。生暖かくて、どこか甘い匂いがした。


真希は、もういなかった。


階段を降りていく足音は、とっくに消えていた。通りに出て、角を曲がって、地下鉄の駅に向かっているはずだった。


追いかければ、まだ間に合う時間だった。


追いかけなかった。


---


14時58分。


---


健一はカフェに向かって歩き始めた。


足が重い。


28年間、この瞬間を想像したことがある。何度も。何十回も。


でも、想像の中の再会は、いつも曖昧だった。場所も、時間も、会話も、ぼんやりとしていた。


今、場所がある。時間がある。


あと2分で、真希に会う。


---


カフェのドアを開けた。


涼しい空気が顔に当たった。エアコンが効いている。BGMはジャズ。ピアノとベース。


店内を見回した。


窓際の席に、女性が一人、座っていた。


---


真希だった。


---


健一は、3秒間、動けなかった。


真希は、窓の外を見ていた。こちらに気づいていない。


48歳の林真希。


髪は短くなっていた。28年前は肩より長かった。今はショートカット。少し白いものが混じっている。


顔は——


顔は、変わっていた。当然だ。28年経っている。皺が増えた。輪郭が変わった。


でも、横顔の角度は同じだった。


窓の外を見る時の、少し首を傾ける癖。それは変わっていなかった。


---


真希が振り向いた。


目が合った。


「あ」


真希が声を出した。


「佐伯くん」


立ち上がろうとして、椅子の脚がテーブルに引っかかった。小さな音がした。


健一は、ようやく歩き始めた。


---


「久しぶり」


真希が言った。


「久しぶり」


健一が言った。


握手をするべきか。ハグをするべきか。何もしないべきか。


真希は、どちらもしなかった。ただ、微笑んでいた。


健一も、どちらもしなかった。ただ、立っていた。


「座って」


真希が向かいの椅子を示した。


健一は座った。


---


「飛行機、どうだった?」


「普通だった」


「混んでた?」


「そうでもなかった」


「ホテル、どこ?」


「尖沙咀」


「九龍側か。観光?」


「まあ、そうだね」


会話が、滑っていく。


中身のない言葉が、口から出ていく。


健一は、自分が何を言っているのかわからなかった。ただ、沈黙を埋めるために、音を発していた。


---


ウェイターが来た。


「ご注文は?」


真希がメニューを見た。


「私、アイスラテ。佐伯くんは?」


「同じもので」


ウェイターが去った。


また、沈黙。


---


真希が窓の外を見た。


「香港、初めて?」


「2回目」


「いつ来たの?」


「10年くらい前。取材で」


「何の取材?」


「小説の」


「ああ、そうか。小説家なんだよね、佐伯くん」


「まあ、一応」


「読んだよ、何冊か」


「ありがとう」


「面白かった」


「ありがとう」


会話が、また滑った。


---


アイスラテが来た。


真希がストローで氷をかき混ぜた。


「で、取材って、何の?」


健一は、グラスを見た。


取材。


そうだ。取材という名目で、ここに来たのだ。


「香港の現代美術について」


嘘だ。


「次の小説に出てくるんだ。香港を舞台にした話で」


嘘だ。


「それで、専門家に話を聞きたくて」


嘘だ。


真希は、ストローから口を離した。


「ふうん」


何かを探るような目で、健一を見た。


「28年ぶりに連絡してきて、取材?」


---


健一は、答えられなかった。


真希は、微笑んだ。


でも、目は笑っていなかった。


「いいよ、別に。取材でも何でも」


グラスを置いた。


「で、何が聞きたいの?」


---


健一は、準備してきた質問を思い出そうとした。


香港の現代美術シーン。アートバーゼル香港の影響。中国本土との関係。西洋と東洋の美学の融合。


全部、どうでもよかった。


「——真希は」


名前を呼んだ。


28年ぶりに、声に出して呼んだ。


「真希は、なんで香港に?」


---


真希の表情が、一瞬、固まった。


すぐに、元に戻った。


「仕事」


短く答えた。


「こっちの美術館からオファーがあって。もう十五年くらいになるかな」


「そう」


「日本、飽きちゃって」


「そう」


「パリの後、東京で働いてたんだけど。なんか、違うなって」


「違う?」


「うん。なんていうか——」


真希は、窓の外を見た。


「——逃げたかったのかも」


---


健一は、何も言えなかった。


逃げたかった。


何から?


聞けなかった。


---


真希が、こちらを向いた。


「佐伯くんは?」


「俺?」


「28年間、何してたの?」


「書いてた。小説を」


「それだけ?」


「——それだけ」


「結婚は?」


「してない」


「したことは?」


「ない」


真希が、少し目を細めた。


「ふうん」


---


沈黙が落ちた。


今度は、どちらも埋めようとしなかった。


---


真希がアイスラテを飲んだ。


氷がカラカラと音を立てた。


「あのさ」


真希が言った。


「正直に言っていい?」


「——どうぞ」


「取材って、嘘でしょ」


---


健一は、答えなかった。


真希は、続けた。


「28年間、一回も連絡なかったのに。急に取材って。変じゃない?」


「——変、かもしれない」


「かもしれない、じゃなくて、変だよ」


真希の声は、穏やかだった。責めているようには聞こえなかった。


でも、目は——


目は、何かを待っていた。


---


健一は、グラスを見た。


アイスラテ。氷が溶けて、色が薄くなっている。


「父が死んだ」


口から出た言葉は、自分でも予想しなかったものだった。


「——え?」


「3月に。それで、遺品を整理してたら——」


真希が、身を乗り出した。


「それで?」


「父の、未発表の小説が出てきた」


「小説? お父さん、書いてたの?」


「若い頃。銀行員になる前に」


健一は、テーブルの上の自分の手を見た。


「それを読んで——」


言葉が詰まった。


「読んで?」


「——真希のことを、思い出した」


---


真希が、息を吸った。


小さな音だった。でも、健一には聞こえた。


「どういう小説だったの」


真希の声は、静かだった。


健一は、グラスの中の氷を見た。


「——若い男の話だ」


「若い男?」


「銀行員になる前の父と同じ年齢の。23歳。小説家になりたいと思っていた男の話」


真希は、何も言わなかった。


「その男には、好きな女がいた」


健一は、自分の声が平坦なのに気づいた。感情を押し殺しているのではない。感情がどこかに行ってしまったのだ。


「でも、言えなかった。言わないまま、女は別の男と結婚した。男は銀行員になった。40年経って、男は死んだ。小説は、引き出しの奥から出てきた」


真希が、息を吐いた。


「それで、私のことを思い出した?」


「——ああ」


「どうして?」


健一は、真希を見た。


48歳の真希。窓からの光が、顔の右半分を照らしている。


「俺も、言えなかったから」


---


沈黙が落ちた。


カフェのBGMが、やけに大きく聞こえた。ピアノが、何かのスタンダードを弾いている。曲名は思い出せない。


真希が、ストローを指で弾いた。


「言えなかったって、何を?」


---


健一の心臓が、一度だけ強く打った。


ここだ。


28年間、避けてきた瞬間が、今、目の前にある。


「——好きだった」


声が、掠れた。


「あの時、真希のことが好きだった」


真希の表情が、動かなかった。


「パリで。最後の夜。真希が部屋に来た時。言おうとした。でも、言えなかった」


真希は、まだ動かなかった。


「28年間、ずっと——」


「——待って」


真希が、手を上げた。


「待って、佐伯くん」


---


真希の声は、低かった。


怒っているのか。悲しんでいるのか。健一には、わからなかった。


「28年間、ずっと、って言った?」


「——言った」


「28年間、ずっと、私のことを?」


「——ああ」


真希が、笑った。


笑った、と言っていいのかわからない。口の端が上がっただけだ。目は笑っていなかった。


「嘘でしょ」


---


健一は、答えられなかった。


「28年間、一度も連絡してこなかったじゃない」


真希の声が、少し高くなった。


「電話も。手紙も。メールも。何もなかった。私が日本に帰った時も、東京にいた時も、香港に来た時も。28年間、何もなかった」


「——」


「それで、『ずっと好きだった』?」


真希が、グラスを持ち上げた。また置いた。


「28年間、ずっと好きだったら、なんで何もしなかったの?」


---


健一は、自分の手を見た。


テーブルの上の、自分の手。49歳の手。皺が増えた。血管が浮いている。


「——わからない」


正直に言った。


「わからない。なんで何もしなかったのか、俺にもわからない」


真希が、目を細めた。


「わからない?」


「怖かった、のかもしれない」


「何が?」


「真希に拒絶されることが。あるいは——」


言葉が詰まった。


「あるいは?」


「——真希が、覚えていないかもしれないことが」


---


真希の表情が、変わった。


何かが、一瞬だけ、目の奥を過ぎった。健一には、それが何なのかわからなかった。


「覚えていない?」


真希が、繰り返した。


「私が、あの夜のことを、覚えていないかもしれないって?」


「——」


「佐伯くん」


真希が、テーブルに身を乗り出した。


「私がどれだけ覚えてるか、知ってる?」


---


真希の目が、健一を捉えた。


「あの夜、私が何を着てたか。覚えてる?」


健一は、首を振った。


「白いワンピース」


真希が言った。


「膝丈の、白いワンピース。袖にレースがついてた。安物だった。マレ地区の古着屋で買った。12フラン」


健一は、何も言えなかった。


「佐伯くんの部屋の匂いも覚えてる。コーヒーと、古い本と、タバコ。佐伯くん、あの頃、ジタン吸ってたでしょ」


「——ああ」


「窓が開いてた。カーテンが揺れてた。風が少し冷たかった。8月なのに」


真希の声が、低くなった。


「私、聞いたんだよ。『何か、言いたいこと、ない?』って」


---


健一の胸が、締め付けられた。


「佐伯くん、10秒くらい、黙ってた」


真希が続けた。


「私、数えてた。心の中で。1、2、3、4——。10まで数えて、何も言わなかったら、帰ろうって。決めてた」


「——」


「10秒経った。佐伯くん、何も言わなかった」


真希が、目を伏せた。


「だから、帰った」


---


沈黙が、落ちた。


長い沈黙だった。


BGMが止まった。次の曲が始まるまでの、数秒間の空白。


「——覚えてたんだな」


健一が、やっと言った。


「当たり前でしょ」


真希の声は、平坦だった。


「28年間、忘れたことないよ。一度も」


---


健一は、真希を見た。


真希は、窓の外を見ていた。


「じゃあ、なんで——」


「なんで何?」


「メールで、『あの時のこと、あんまり覚えてない』って——」


真希が、振り向いた。


「私、そんなこと書いた?」


「——いや」


健一は、首を振った。


「書いてない。でも、俺は——」


「佐伯くんが、勝手にそう思ってただけでしょ」


真希が、微笑んだ。


今度は、目も笑っていた。でも、その笑いには、何か冷たいものがあった。


「私が忘れてると思ってた? あんな夜を?」


---


健一は、答えられなかった。


「私ね」


真希が、グラスを持ち上げた。


「あの夜のこと、ずっと考えてた。佐伯くんが何も言わなかった理由」


氷がカラカラと鳴った。


「最初は、私のことが好きじゃなかったんだって思った」


真希がグラスを置いた。


「でも、それだと、あの10秒の沈黙が説明できない。好きじゃないなら、すぐに『別にないよ』って言えばいい」


「——」


「だから、次に思ったのは、私のことは好きだけど、言うほどじゃなかったんだって」


真希の声が、少し震えた。


「私は、『言うほど』の相手じゃなかったんだって」


---


健一の胸が、痛んだ。


「違う」


「違う?」


「違う。そうじゃない」


「じゃあ、なんで言わなかったの?」


真希が、健一を見た。


「28年間、私、ずっとそれを考えてた。なんで佐伯くんは何も言わなかったのか。なんで私は『言うほど』の相手じゃなかったのか」


「真希——」


「28年だよ、佐伯くん」


真希の声が、高くなった。


「28年間、私は『選ばれなかった側』だと思って生きてきた。私には、言葉をかける価値がないんだって。思ってきた」


---


健一は、立ち上がろうとした。


真希が、手で制した。


「座って」


低い声だった。


健一は、座った。


「私ね、あの後、3回、結婚しようとした」


真希が言った。


「3回とも、やめた。相手が悪いんじゃない。私が悪いの。私が、いつも『この人は、本当に私を選んでいるのか』って、疑ってしまうから」


「——」


「あの夜のせいだよ、佐伯くん」


真希が、健一を見た。


「あの10秒のせいで、私は28年間、自分を信じられなかった」


---


健一は、何も言えなかった。


言葉がなかった。


弁解がなかった。


「——ごめん」


やっと出た言葉は、それだけだった。


「ごめん、真希」


真希は、笑わなかった。


「ごめん、で済むと思う?」


「——思わない」


「じゃあ、なんで謝るの?」


「他に、言えることがない」


真希が、目を閉じた。


「そうだね」


長い沈黙。


「私も、他に言えることがない」


---


真希が、立ち上がった。


「今日は、帰る」


「——真希」


「また、連絡する。明日か、明後日か」


真希がバッグを持った。


「取材の話、まだ終わってないでしょ」


「——ああ」


「続きは、また今度」


真希が、微笑んだ。


今度の笑顔は、さっきよりも柔らかかった。でも、目の奥には、まだ何かがあった。


「28年ぶりに会って、いきなり全部話すのは、無理だよ」


「——そうだな」


「じゃあね、佐伯くん」


真希が、歩き出した。


---


健一は、真希の背中を見た。


カフェのドアが開いた。


真希が出ていく。


振り返らない。


28年前と、同じだ。


---


健一は、テーブルに残された。


真希のグラスが、まだそこにあった。


氷は、ほとんど溶けていた。


健一は、自分のグラスを持ち上げた。


アイスラテ。ぬるくなっている。


一口飲んだ。


甘くて、苦かった。


窓の外、真希の姿はもう見えなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る