【恋愛×現代ドラマ】28年目の答え合わせ──香港で再会した彼女は、僕のせいで28年間自分を責めていた

マスターボヌール

プロローグ


2024年3月15日、金曜日。午前1時47分。


佐伯健一は自分の部屋にいた。


東京・世田谷区のマンション。3LDK。一人で住むには広すぎる部屋。10年前に買った。結婚するつもりだった。しなかった。


デスクの上には、段ボール箱が一つあった。


父の遺品だった。


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父が死んだのは、3週間前だった。


脳梗塞の後遺症で、28年間、半身不随だった。何度も入退院を繰り返した。最後の1年は、ほとんど意識がなかった。


葬儀を終え、実家の片付けをした。母は5年前に他界していた。実家には父の荷物だけが残っていた。


ほとんどは処分した。古い服、使わない家具、読まない本。


でも、一つだけ、持ち帰ったものがあった。


父の書斎の引き出しの奥から出てきた、古い原稿用紙の束。


---


父は銀行員だった。


定年まで勤め上げた、真面目な銀行員だった。


でも、若い頃は小説家になりたかったらしい。


健一は知らなかった。母から聞いたこともなかった。父自身が語ったこともなかった。


原稿用紙の束は、200枚ほどあった。


タイトルは「夏の終わりに」。


青春小説だった。大学生の男女が出会い、惹かれ合い、でも最後は別れる。ありふれた話だった。文章も拙かった。プロの作家になれるレベルではなかった。


でも、最後まで書いてあった。


父は、最後まで書き上げていた。


そして、発表しなかった。


引き出しの奥に、28年以上、眠らせていた。


---


健一は原稿用紙を読み終えた後、長い間、動けなかった。


なぜ発表しなかったのか。


怖かったのか。


拒絶されるのが怖かったのか。


「才能がない」と言われるのが怖かったのか。


それとも、発表しないことで、「もしかしたら」という可能性を残しておきたかったのか。


「発表したら認められたかもしれない」という夢を、死ぬまで抱えていたかったのか。


---


分からなかった。


分からなかったが、健一は自分の人生を見た気がした。


父も、自分も、同じだった。


やらなかった。


言わなかった。


選ばなかった。


その結果、何も始まらなかった。


父は小説家になれなかった。


健一は小説家になった。でも、それ以外の何かを、失った。


28年前の夏、パリで失ったものを、取り戻せないまま、49歳になった。


---


午前1時47分。


健一はデスクの前に座っていた。


PCの画面は暗かった。スリープモードに入っていた。


父の原稿用紙は、段ボール箱の中に戻してあった。


部屋は静かだった。時計の秒針の音だけが聞こえた。


健一は、PCのキーボードに手を伸ばした。


止まった。


何をしようとしているのか、自分でも分からなかった。


いや、分かっていた。分かっていて、認めたくなかった。


---


マウスを動かした。


画面が点いた。


デスクトップが表示された。仕事用のフォルダが並んでいた。執筆中の原稿。編集者とのやり取り。取材のメモ。


ブラウザのアイコンをクリックした。


ホームページが表示された。ニュースサイトだった。政治のニュース。経済のニュース。スポーツのニュース。どうでもいい情報が並んでいた。


検索バーに、カーソルを移動させた。


止まった。


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何を検索する?


分かっている。


分かっていて、認めたくない。


28年間、一度も検索したことがなかった。


SNSが普及してからも。Facebookができてからも。Instagramができてからも。


一度も、彼女の名前を検索したことがなかった。


怖かったからだ。


何が怖かったのか。


見つかることが怖かったのか。


見つからないことが怖かったのか。


見つかって、幸せそうな写真を見ることが怖かったのか。


見つかって、結婚していて、子供がいて、自分の知らない人生を歩んでいることを知ることが怖かったのか。


あるいは、見つかって、メッセージを送る勇気がない自分と向き合うことが怖かったのか。


---


午前1時52分。


健一は検索バーをクリックした。


カーソルが点滅した。


白い検索バーの中で、黒いカーソルが点滅していた。


指がキーボードの上で止まっていた。


「林」


その2文字を打てばいい。


それだけでいい。


でも、指が動かなかった。


---


父の原稿を思い出した。


「夏の終わりに」。


あの小説の主人公も、最後に何かを言おうとして、言えなかった。


ヒロインが去っていく背中を見ながら、「待ってくれ」と言おうとして、言えなかった。


そして、2人は別れた。


父は、自分の経験を書いたのだろうか。


父にも、「言えなかった相手」がいたのだろうか。


母と結婚する前に、別の誰かがいたのだろうか。


分からなかった。


もう、聞くことはできなかった。


---


午前1時54分。


健一は、「は」と打った。


予測変換が表示された。「橋本」「浜田」「林」。


「林」をクリックした。


検索バーに「林」と表示された。


続けて、「ま」と打った。


予測変換。「松本」「真希」「まさき」。


「真希」をクリックした。


検索バーに「林真希」と表示された。


---


その4文字を見た瞬間、心臓が跳ねた。


28年間、何度も頭の中で繰り返した名前。


何度も思い出した名前。


何度も忘れようとした名前。


その名前が、今、画面の中にあった。


自分の指が打った文字として、そこにあった。


---


エンターキーが、キーボードの右端にあった。


あのキーを押せば、検索結果が表示される。


林真希という名前を持つ人間が、何人も表示されるだろう。


その中に、あの林真希がいるかもしれない。


いないかもしれない。


SNSをやっていないかもしれない。


結婚して名字が変わっているかもしれない。


でも、もしいたら。


もし、あの林真希が見つかったら。


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午前1時56分。


健一の右手の小指が、エンターキーの上にあった。


押せなかった。


あと1センチ。指を1センチ下ろせば、キーが押される。


その1センチが、無限に遠かった。


---


頭の中で、声がした。


**お前は何をしている?**


49歳だぞ。


28年前の相手を、今さら検索して、どうする?


見つかったとして、何を言う?


「久しぶり」?


「元気だった」?


「28年前のこと、覚えてる」?


馬鹿げている。


相手はとっくに忘れている。


28年だぞ。


人生の半分以上だぞ。


お前だけが覚えている。


お前だけが囚われている。


相手は、もうとっくに、前に進んでいる。


---


別の声がした。


―じゃあ、このままでいいのか?―


父のように、何もしないまま死ぬのか?


「夏の終わりに」を引き出しの奥に隠したまま、死ぬのか?


「もしあの時、言っていれば」と思いながら、死ぬのか?


28年、それを続けてきた。


あと何年、続ける?


50歳まで?


60歳まで?


死ぬまで?


---


午前1時58分。


健一はエンターキーを押した。


---


画面が切り替わった。


検索結果が表示された。


「林真希」に一致するユーザー。


スクロールした。


知らない顔。知らない顔。知らない顔。


若い女性。中年の男性。高校生らしき少女。


違う。違う。違う。


スクロールを続けた。


---


3ページ目。


手が止まった。


---


写真があった。


女性の写真だった。


ショートカットの髪。少し丸くなった顔。目尻の皺。でも、笑い方は変わっていなかった。


28年前と同じ笑い方だった。


カラヴァッジオについて語る時の、少し熱を帯びた目。その目が、28年分の時間を経て、画面の中にあった。


林真希。


肩書きには「美術評論家」と書いてあった。


香港在住。


既婚の表示はなかった。


---


健一は画面を見つめた。


動けなかった。


真希がいた。


28年間、探さなかった真希が、そこにいた。


生きていた。


笑っていた。


美術評論家になっていた。


カラヴァッジオが好きだと言っていた真希が、美術の道に進んでいた。


---


午前2時3分。


健一は真希のプロフィールをクリックした。


投稿が表示された。


美術館の写真。展覧会のレポート。香港の街並み。


3日前の投稿。「来月、広州で講演をします」。


真希は活動していた。今も、生きて、動いて、仕事をしていた。


健一は投稿を遡った。


1ヶ月前。3ヶ月前。半年前。1年前。


真希の人生が、断片的に表示されていた。


食事の写真。友人との写真。仕事の写真。


どこにも、男の影はなかった。


結婚している気配もなかった。


---


午前2時11分。


健一は「メッセージを送る」ボタンの上に、カーソルを合わせた。


クリックしなかった。


今、メッセージを送って、何を書く?


「28年ぶりです。覚えていますか?」


馬鹿げている。


いきなりそんなメッセージを送ったら、怪しすぎる。


でも、他に何を書く?


「偶然見つけました」?


嘘だ。偶然じゃない。探したのだ。


「お元気ですか」?


薄すぎる。28年分の重みがない。


---


健一はメッセージを送らなかった。


代わりに、真希の投稿をもう一度見た。


「来月、広州で講演をします」。


広州。


香港から近い。


---


頭の中で、何かが動き始めた。


小説の取材。


そう言えばいい。


新作の取材で、香港に行く。


その「ついで」に、真希に会う。


28年ぶりに「偶然」再会する。


嘘だ。


全部嘘だ。


でも、いきなりメッセージを送るより、ずっと自然だ。


健一はPCを閉じた。


---


午前2時23分。


健一は暗い部屋の中で、天井を見ていた。


心臓がまだ速く打っていた。


真希を見つけた。


28年ぶりに、真希を見つけた。


これから、どうする?


本当に香港に行くのか?


本当に真希に会うのか?


会って、何を言う?


28年前、言えなかったことを、今さら言うのか?


---


分からなかった。


分からなかったが、一つだけ確かなことがあった。


父のようにはならない。


「夏の終わりに」を引き出しの奥に隠したまま、死にたくない。


28年間の沈黙を、このまま墓場まで持っていきたくない。


健一は目を閉じた。


眠れないと分かっていた。


でも、目を閉じた。


---


―これが、28年間の沈黙が破られた夜だった。—

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