曜凌視点のエピローグ 「皇帝の眼差し」

 朝の光が、都の屋根を金色に染める。

 宮殿の窓から差し込む日差しが、石造りの回廊に柔らかく反射していた。


 曜凌は、ゆっくりと歩を進めながら、心の奥底で膨れ上がる静かな感情を押さえつけていた。


(……あの夜から、もう半年か)


 思い返せば、あの夜、龍脈の核心で蓮が力を使ったとき、帝国の空気は一変した。

 地鳴り、光、そして胸の奥まで響く痛み。


(俺は、あのとき――何を考えていたか)


 臣下として、皇帝として、そして、一人の男として。

 選択を迫られた蓮を、俺はただ見守ることしかできなかった。

 命を懸ける瞬間、言葉が届かぬ距離にいたことを、未だに思い出す。


 ――いや、言葉は届いたのだ。

 届いたが、制止はできなかった。


 彼女は、自らの意志で歩んだ。

 俺の意志ではなく、自分の意志で、帝国と自分自身を救った。


「……あのときの顔は、忘れられない」


 庭園に立ち、蓮の姿を思い浮かべる。

 力を使い果たし、膝をつき、震えながらも決意に満ちたその瞳。

 人でありながら、龍の血を宿す存在として立っていたあの瞬間。


 その姿は、俺にとっての光でもあり、痛みでもあった。


 あの日から、帝国は変わった。

 龍脈の制御に成功し、民は安寧を取り戻した。

 後宮の制度も改革され、妃たちは争いの道具ではなく、互いに尊重される存在になった。


 しかし、帝国を守ることの責任は、決して軽くなったわけではない。


(力を使ったのは彼女だ。俺ではない)

(それでも、帝国の未来は、俺の判断にかかっている)


 帝としての自覚は、日々胸に重くのしかかる。

 だが、同時に蓮という存在が、俺の肩の重さを半分引き受けてくれていることを、知っていた。


 日課の巡視を終え、宮殿の書斎に戻ると、蓮が窓辺に立っていた。


「おはようございます、陛下」


 振り返ったその顔に、微笑みが浮かぶ。

 力を使ったあの日の疲労は消え、普通の女性の柔らかさが宿っている。


「おはよう、蓮」


 俺は答え、彼女の背中をそっと撫でる。

 その手の温もりは、どんな金銀の財宝よりも重く、心を安らげる。


「今日も、帝国の巡視に?」


「ええ。民の声を聞くことは、俺の務めですから」


 蓮は頷き、窓の外を眺める。

 小さな子供たちが、笑いながら市場に駆けていく。

 空に舞う鳩の群れ。風に揺れる柳の葉。


(……こんな日々が、ずっと続けばいい)


 頭では理解している。平穏は、必ず揺らぐものだと。

 反乱も、陰謀も、災害も、いつ訪れるか分からない。

 しかし今、蓮がそばにいる限り、俺は信じられる。


 ――未来を守る覚悟と、選ぶ勇気が、ここにある。


 書斎に広げられた地図に視線を落とす。

 各地の領主や民の動きが記されており、龍脈の流れも細かく描かれている。


「……蓮、あの龍脈の制御、完全に安定したのか」


 蓮は、地図の上に指を置き、淡々と答えた。


「はい。微細な調整は必要ですが、致命的な影響はもうありません」


 その言葉に、胸が少し軽くなる。


「……感謝している」


 黙っていると、蓮が微笑んだ。


「陛下、感謝される筋合いではありません。

 私たちは互いに、支え合ってきたのですから」


 その微笑みに、心臓が高鳴る。


「……そうだな。互いに支え合ってきた」


 視線が交わる瞬間、時間が止まったかのような感覚に包まれる。


 その夜。

 帝国の星空は、きらめきに満ちていた。


 蓮は、宮殿の屋上に立ち、星を見上げる。

 龍の力は穏やかに胸に宿り、呼吸に合わせて微かに脈打つ。

 帝としての俺は、少し離れた場所に立ち、彼女を見守る。


「……蓮、未来はどう見える?」


 俺の問いに、蓮はそっと笑う。


「まだ、分かりません。

 でも、怖くはありません」


 その言葉に、胸が締めつけられる。

 強さと柔らかさを同時に持つ蓮の姿は、帝としての俺にとって、何よりの希望であり、何よりの試練でもあった。


「俺も……同じだ」


 低く呟く。

 どんな困難が訪れようとも、蓮と共に歩むことを決めた。

 命を懸ける覚悟も、代償を受け入れる覚悟も、すべてはここにある。


 月光に照らされた屋上で、二人は沈黙のまま空を見上げた。

 星々が瞬き、風がそっと頬を撫でる。


 長い孤独を経て、帝としても、男としても、ようやく掴んだ瞬間だった。

 平穏も、試練も、すべてを抱きしめながら歩む日々。


(これが……俺たちの選んだ未来か)


 曜凌の胸に、静かな感動が押し寄せる。

 誰もが奪おうとした日々も、すべて意味があったのだと、ようやく理解する。


 そして、そっと蓮の手を取り、互いの温もりを確かめる。

 龍の血を宿しながら、人として生きる彼女と、共に歩む未来。


 その未来は、誰にも奪えない。

 帝としての責務と、一人の男としての誇り。

 そのすべてを抱き、曜凌は深く息を吐いた。


 ――静かで、確かな日々が、ここから始まる。


 夜空の星々が、二人を照らす。

 皇帝と、龍の血を宿す女性。

 その視線は、未来を見据えて揺るがない。

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