最終章(終章) 「選ばれた未来」
夜明け前の空は、まだ群青に沈んでいた。
だが、東の端だけが、かすかに白み始めている。
高殿の回廊に立つ蓮は、冷たい石の感触を足裏に感じながら、深く息を吸った。
肺の奥が、微かに熱を帯びる。
(……静かだ)
戦の喧騒も、龍の咆哮も、血と炎の匂いも、すべてが遠ざかっていた。
後宮を包む沈黙は、まるで世界そのものが息を潜めているかのようだった。
――選択の時は、もうすぐ訪れる。
「蓮」
背後から名を呼ばれ、彼女はゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、皇帝・曜凌(ようりょう)だった。
豪奢な衣は脱ぎ捨てられ、今は簡素な装いに身を包んでいる。
それでも、その瞳の奥に宿る重みは、決して消えていない。
「目覚めていたのか」
「ええ。眠れませんでした」
蓮は正直に答えた。
嘘をつく理由が、もうどこにも見当たらなかったからだ。
曜凌は彼女の隣に立ち、同じ空を見上げる。
二人の距離は近い。だが、触れ合うことはなかった。
「……すべてが終わったな」
「はい」
短い返事。
その裏に、数え切れないほどの記憶が折り重なっている。
龍の血が暴走し、都を揺るがした夜。
権力を求め、裏切り、消えていった者たち。
友情と呼べる温もりを、命懸けで守ってくれた人々。
そして――
自分が、人ではなくなるかもしれないと悟った瞬間。
「蓮」
曜凌の声は、いつになく低く、慎重だった。
「お前は、どうしたい」
その問いは、命令ではない。
皇帝の言葉でもなかった。
ひとりの男として、ひとりの人間としての問いだった。
蓮はしばらく黙り込み、胸元に手を当てた。
そこに眠る龍の力が、かすかに脈打つ。
「……私は」
言葉を探す。
何度も自分に問い続けてきた答えを、ようやく口にするために。
「私は、奪われる人生を終わらせたい」
曜凌が、静かに息を呑む。
「孤児として生まれ、選ばれることもなく、守られることもなく生きてきました。
後宮に迎えられたのも、龍の血が理由だった。
誰も、私自身を見てはいなかった」
蓮の声は震えていた。
それでも、目は逸らさない。
「でも……今は違います」
彼女は、彼を見る。
「私は知りました。
愛されること。
信じられること。
誰かのために、命を賭けたいと思える気持ちを」
曜凌の拳が、わずかに強く握られた。
「だから私は、龍として生きることも、人として消えることも、選びません」
「……では、何を選ぶ」
「両方です」
はっきりとした声だった。
「龍の力を持ちながら、人として生きる。
完全ではなくてもいい。
代償を背負ってでも、自分で選んだ未来を歩きたい」
その瞬間、空気が震えた。
蓮の背後に、淡く透けるような龍の影が現れる。
威圧も、怒りもない。
ただ、静かな眼差しで彼女を見つめていた。
(……あなたも、私を試しているの?)
龍の声は聞こえない。
それでも、心は通じていた。
――この選択が、どれほど過酷な道になるか。
――それでも、後悔しないか。
「私は逃げない」
蓮は、影に向かって告げる。
「誰かに決められた運命じゃない。
私が選んだ未来だから」
光が、弾けた。
龍の影は霧のように溶け、蓮の胸へと還っていく。
同時に、全身を貫く激痛が襲った。
「っ……!」
膝が崩れ落ちる。
だが、地面に倒れる前に、曜凌が彼女を抱きとめた。
「蓮!」
「……大丈夫……です……」
唇が青白くなりながらも、彼女は微笑む。
「代償……ですよね……」
曜凌は歯を食いしばった。
「なぜ、そこまで……!」
「陛下」
蓮は彼の衣を掴む。
「私を、憐れまないでください」
その一言に、曜凌の動きが止まった。
「私は……幸せです。
ここにいて、あなたと出会えて、選べたから」
東の空が、はっきりと白くなる。
夜が終わり、朝が来る。
痛みは消えない。
龍の力は完全ではなくなった。
以前のような奇跡は、もう起こせないだろう。
それでも――
「蓮」
曜凌は、彼女を強く抱き締めた。
「……余は、お前を失わない。
皇帝としてではなく、ひとりの男として誓う」
蓮は、その胸に顔を埋める。
「はい……」
涙が、静かに落ちた。
悲しみではない。
長い孤独が、ようやく終わった証だった。
――数年後。
後宮は、かつてのような血と陰謀の巣ではなくなっていた。
制度は改められ、理不尽に泣く妃は消えた。
蓮は、皇后にはならなかった。
だが、誰よりも皇帝の傍にいる存在となった。
龍の力は弱まり、寿命は人と同じになった。
それでも、彼女はそれを悔いない。
「今日の空、きれいですね」
庭園でそう呟くと、曜凌が微笑む。
「ああ。未来のようだ」
蓮は空を見上げ、そっと目を閉じた。
選ばれた未来ではない。
奪われた運命でもない。
――自ら選び取った、たったひとつの人生。
その歩みは、これからも続いていく。
人として。
そして、龍の血を引く、ひとりの女性として。
【完】
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます