第11章 「龍と人の境界」
儀式の場は、帝国の中心にあった。
誰もがその存在を知りながら、誰も近づくことのなかった場所――
龍脈の核。
巨大な石環が幾重にも重なり、地の奥から立ち昇る気が、空気そのものを震わせている。ここに立っただけで、常人なら意識を失うと言われていた。
蓮は、その中央に立っていた。
(……ここが、終点)
不思議と、恐怖はなかった。
怖さは、すでに何度も味わった。選択も、後悔も、涙も、すべてを通り抜けて、今ここにいる。
「……蓮」
背後から、景耀の声がする。
振り返らなくても分かる。彼は、ここまでしか来られない。
「これ以上、近づくと危険です」
玄翁の声が、低く響いた。
「龍の力が完全に顕現すれば、人の身では耐えられぬ」
景耀は、蓮の背中を見つめていた。
その背中が、あまりにも遠く見えて。
「蓮……戻れるなら、今だ」
その声は、震えていた。
皇帝としてではない。
帝国の主でもない。
ただ、一人の男としての声だった。
蓮は、ゆっくりと振り返る。
「陛下」
微笑もうとして、うまくいかなかった。
「私……今、とても不思議な気持ちです」
「……」
「怖いのに、迷いがありません」
景耀は、唇を噛みしめる。
「それは……覚悟だ」
「いいえ」
蓮は、首を振った。
「これは……選び続けた結果です」
一歩、前に進む。
地面が、淡く光り始める。
「私は、龍になりたいわけじゃない」
風が、強くなる。
「でも、人であることだけに、しがみつく気もありません」
龍脈の気が、彼女の体を包み込む。
「境界に立つ」
蓮の声が、はっきりと響く。
「人でありながら、龍の力を抱く存在として」
玄翁が、静かに目を閉じた。
「……最も、困難な道を選んだな」
「簡単な道なんて、最初からありませんでした」
その瞬間。
世界が、反転した。
蓮は、再び“内側”に立っていた。
金色の龍が、そこにいる。
以前よりも、近い。
以前よりも、巨大で、鮮明で。
《来たか》
低い声が、魂に直接響く。
「来ました」
《人の身を捨てる覚悟か》
「いいえ」
蓮は、真っ直ぐに龍を見上げた。
「捨てません」
《では、力を拒むか》
「拒みません」
龍の瞳が、細められる。
《矛盾している》
「……そうですね」
蓮は、小さく笑った。
「でも、人って、矛盾した生き物です」
一歩、踏み出す。
「恐れて、愛して、迷って……それでも前に進む」
《それは、弱さだ》
「はい」
即答だった。
「でも、その弱さがあるから、私は誰かを守りたいと思えた」
龍の気配が、揺れる。
《力を得れば、多くを失う》
「分かっています」
《寿命も、安らぎも、穏やかな感情も》
「それでも」
蓮は、胸に手を当てる。
「今、この瞬間の“選択”を失うくらいなら、全部失っても構いません」
沈黙。
長い、長い沈黙。
やがて、龍が低く唸った。
《……人とは、厄介だ》
《だが――》
巨大な頭が、ゆっくりと下がる。
《その厄介さこそ、我にないもの》
光が、溢れ出す。
《よかろう》
《境界に立つ者よ》
《我は、お前と共にある》
現実世界。
龍脈が、轟音を立てて動き出した。
大地が鳴り、空気が震え、光が天へと昇る。
「蓮――!」
景耀が叫ぶ。
だが、彼女は振り返らない。
光の中で、蓮は静かに目を閉じていた。
苦しい。
体が、壊れそうになる。
感情が、溢れすぎて、押し潰されそうになる。
(……これが、代償)
それでも。
誰かの泣き声が、聞こえる。
誰かの笑顔が、浮かぶ。
孤児院の記憶。
後宮での不安。
景耀の手の温もり。
(私は……)
(人だ)
最後の力で、願う。
「……鎮まれ」
光が、収束する。
龍脈が、静かに脈動を取り戻す。
そして――
蓮の体が、崩れ落ちた。
「蓮!!!」
景耀は、理性も立場も投げ捨て、駆け出した。
抱き寄せると、彼女はまだ息をしていた。
「……陛下」
微かな声。
「喋るな!」
「……ふふ」
弱々しい笑み。
「怒られると思ってました」
景耀の目から、涙が溢れ落ちる。
「生きて……生きてくれ……!」
蓮は、ゆっくりと首を振った。
「まだ……分かりません」
「……!」
「でも」
指先が、彼の衣を掴む。
「境界に……立てました」
景耀は、強く彼女を抱きしめた。
「それでいい……それでいい……!」
龍の力は、確かに彼女の中にある。
だが――完全ではない。
人でも、龍でもない。
その狭間に、蓮は生きている。
それが、彼女の選んだ道だった。
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