第10章 「引き裂かれる選択」

風が、冷たくなってきていた。


春から夏へ移ろう季節のはずなのに、後宮の空気は張りつめ、肌を刺すような緊張を孕んでいる。蓮は回廊の端に立ち、遠くの空を見つめていた。


(……変わってしまった)


空そのものが変わったわけではない。変わったのは、自分の視界だ。


龍の力と向き合い始めてから、世界は以前よりも鮮明になった。人の感情の揺れ、土地に流れる気配、言葉にされない「選択の重さ」までもが、否応なく伝わってくる。


それは、祝福ではなかった。


「蓮妃様」


振り返ると、魏凌が立っていた。その表情は、いつになく硬い。


「陛下がお呼びです。至急、政殿へ」


胸の奥が、きゅっと締めつけられる。


「……何か、ありましたか」


魏凌は一瞬、言葉を迷った。


「帝国全土に関わることです」


それ以上は、何も言わなかった。


政殿は、重苦しい沈黙に包まれていた。


景耀を中心に、重臣たちが集まっている。地図が広げられ、赤い印がいくつも打たれていた。


蓮は、その光景を見ただけで悟ってしまう。


(……来た)


「蓮」


景耀が名を呼ぶ。


その声は、冷静だった。だが、わずかな揺らぎが隠しきれていない。


「こちらへ」


蓮は、静かに歩み寄った。


「状況を説明する」


景耀は、地図の南方を指す。


「龍脈の乱れが、急激に拡大している」


「第9章で言っていた……」


「そうだ」


頷き、続ける。


「放置すれば、数か月以内に干ばつと疫病が同時に起きる」


政殿に、ざわめきが走る。


「犠牲者は?」


蓮の声は、思った以上に落ち着いていた。


「数十万……いや、それ以上になる可能性がある」


息が詰まる。


(そんな……)


「止める方法は、一つだけだ」


景耀の視線が、蓮を捉えた。


「龍の力を使い、龍脈を直接鎮める」


沈黙。


重臣たちの視線が、一斉に蓮へ集まる。


「……私が?」


「そうだ」


否定はなかった。


蓮の胸の奥で、龍の気配がざわめく。


(できる……)


確かに、分かる。


自分なら、それができる。


だが――


「代償は?」


静かな問いだった。


景耀は、少しだけ視線を逸らした。


「……龍の力を大規模に行使すれば、人としての寿命は大きく削られる」


「どれくらい?」


「……分からん」


正直な答えだった。


「数年かもしれぬし、数十年かもしれぬ。だが――」


言葉が、重くなる。


「最悪の場合、力を使った瞬間に……」


それ以上は、言わなかった。


蓮は、ゆっくりと息を吐いた。


(やっぱり……)


第9章で告げられた「代償」が、現実として迫ってくる。


「陛下」


蓮は、景耀を見つめた。


「これは……皇帝としての命令ですか」


一瞬、空気が凍る。


重臣たちが息をのむ。


景耀は、しばらく沈黙した後、はっきりと言った。


「いいや」


その声には、覚悟が滲んでいた。


「これは、選択だ。お前自身の」


蓮の胸が、ぎゅっと締めつけられる。


(逃げ道を、残してくれる……)


「使わなければ、多くの民が苦しむ」


「使えば……あなたの命が削られる」


「どちらも、真実だ」


景耀は、一歩近づいた。


「だからこそ、私は命じない」


その言葉が、何よりも重かった。


政殿を出た後、蓮は一人で庭園を歩いていた。


足元の石畳が、やけに遠く感じる。


(選択……)


頭では理解している。


帝国を守るために、自分の命を削る。


それは、英雄的で、美談にすらなるだろう。


だが。


「……怖い」


ぽつりと、声が落ちた。


死が怖いのではない。


「……生きたい」


その気持ちが、こんなにも強くなっていることが、怖かった。


(陛下と……)


ふと、景耀の顔が浮かぶ。


共に歩むと誓ったばかりなのに。


「蓮」


背後から、聞き慣れた声。


振り返ると、景耀が立っていた。


「一人にしてしまって、すまない」


「……いいえ」


二人の間に、しばし沈黙が流れる。


「私は……」


蓮は、言葉を探しながら続けた。


「以前なら、迷わなかったと思います」


「……」


「誰かの役に立てるなら、命を差し出すことに、価値があると思っていました」


景耀の目が、わずかに揺れる。


「でも今は……」


声が震えた。


「失いたくないものが、増えてしまいました」


沈黙。


風が、庭の葉を揺らす。


景耀は、ゆっくりと口を開いた。


「それは、弱さではない」


「……」


「生きたいと思うことは、罪ではない」


その言葉に、涙がにじむ。


「それでも……選ばなければならないんですよね」


景耀は、拳を握りしめた。


「本音を言えば……」


一瞬、皇帝の仮面が剥がれる。


「私は、お前に力を使ってほしくない」


蓮は、息をのんだ。


「だが、皇帝としては……帝国を見捨てることもできない」


視線が、交わる。


「だからこそ、引き裂かれる」


蓮は、静かに頷いた。


「……分かります」


その夜、蓮は眠れなかった。


夢の中で、無数の人々の声が響く。


助けて、と。


生きたい、と。


そして――


「一緒に生きてほしい」


景耀の声が、最後に残った。


目を覚ました時、蓮は涙で枕を濡らしていた。


(答えは……もう、出ている)


朝日が昇る前、蓮は決意を固める。


再び政殿に集まった重臣たちの前で、蓮は一歩前に出た。


「私が、龍の力を使います」


ざわめきが起こる。


景耀が、静かに言う。


「……覚悟は、固まったか」


蓮は、彼を見つめた。


その瞳には、恐れも、悲しみも、すべてがあった。


「はい」


だが、続く言葉が、空気を切り裂く。


「ただし――条件があります」


「条件?」


「私が力を使うのは、一度だけです」


重臣たちが息をのむ。


「その後、私は……後宮を離れます」


景耀の目が、大きく見開かれた。


「蓮……!」


「陛下」


蓮の声は、静かだった。


「私は、象徴にも、道具にもなりません」


「……」


「帝国を守るために命を削る。それは選びます。でも――」


一歩、踏み出す。


「その後の人生を、誰かの支配下で終わらせることは、選びません」


沈黙。


「生きていられる時間がどれだけ残るか分からないからこそ」


蓮は、胸に手を当てた。


「私は、私として生きたい」


景耀は、しばらく言葉を失っていた。


やがて、低く言う。


「……それが、お前の選択か」


「はい」


長い沈黙の後。


景耀は、深く息を吐き、そして――


「分かった」


その一言には、痛みと誇りが同時に宿っていた。


「皇帝として、そして一人の男として……その選択を尊重する」


蓮の胸が、強く脈打つ。


(これで……戻れない)


だが、不思議と後悔はなかった。


帝国を救う。


そして、自分自身も、最後まで守る。


それが、引き裂かれた選択の、唯一の答えだった。

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