第9章 「龍の力の制御と代償」
夜明けから数日が過ぎ、後宮には一見すると平穏が戻っていた。
反乱未遂の件は厳重に伏せられ、表向きには「不審者の侵入があった」という簡単な説明だけが流された。女官たちは以前よりも静かに、そして慎重に振る舞っている。
だが、蓮の内側では、決して静まらないものがあった。
(……まただ)
胸の奥が、じんわりと熱を帯びる。
何もしていない。感情を大きく揺らしたわけでもない。それでも、体の深部から“龍の気配”が立ち上ってくるのを、蓮ははっきりと感じ取っていた。
「蓮妃様、大丈夫ですか?」
侍女の声に、はっとする。
「ええ……少し、考え事をしていただけ」
そう答えながら、袖の下で指を握りしめる。指先が、わずかに震えていた。
(制御できていない……)
第8章の夜。あの瞬間、確かに力は彼女を守った。だが同時に、蓮は理解してしまったのだ。
――この力は、優しくない。
「蓮」
庭園に出た彼女の背後から、落ち着いた声が響いた。
「陛下……」
景耀は、いつもよりも少しだけ距離を取って立っていた。その視線は、心配と警戒が入り混じっている。
「体調はどうだ」
「……正直に申し上げます」
蓮は、少しだけ間を置いてから言った。
「自分の中にあるものが、分からなくなっています」
景耀の眉が、わずかに寄る。
「力が、勝手に動く?」
「はい。感情と関係なく……まるで、呼吸をするみたいに」
景耀は小さく息を吐いた。
「やはりな」
「……やはり?」
「龍の血が完全に目覚めかけている」
その言葉に、蓮の胸が重くなる。
「目覚めたら……どうなるんですか」
「制御できなければ、力に呑まれる」
淡々とした口調だったが、その内容は重かった。
「過去の記録には、龍の血を持つ者が、自らを保てなくなった例もある」
「……暴走、ですか」
「ああ。理性を失い、周囲を焼き尽くした者もいる」
蓮は、思わず息を詰めた。
(私が……そんなふうに?)
「でも」
景耀は続ける。
「すべてがそうなるわけではない」
「違いは、何ですか」
「覚悟と、選択だ」
蓮は、彼を見つめ返した。
「力を“使う”のではなく、“共に生きる”と決められるかどうか」
言葉は難しかったが、不思議と胸に落ちた。
「……学ぶ必要がある、ということですね」
「ああ」
景耀は頷いた。
「帝国には、龍脈と力に通じた者がいる。彼に会わせよう」
その日の夕刻。
蓮は、後宮のさらに奥、普段は立ち入りを許されない小殿へと案内された。
中にいたのは、白髪の老人だった。
「久しいな、陛下」
深く頭を下げる老人に、景耀は軽く応じる。
「こちらが、蓮妃だ」
老人の視線が、ゆっくりと蓮へ向けられる。
「……なるほど」
しわがれた声に、奇妙な温かさがあった。
「龍の気配が、よく育っておる」
「育って……?」
蓮は戸惑う。
「恐れを感じておるな」
老人は微笑んだ。
「それでよい。恐れを知らぬ者ほど、力に呑まれる」
「あなたは……?」
「名は玄翁(げんおう)。かつて、龍の血を持つ者に仕えた」
蓮の心臓が、強く打った。
「教えていただけますか」
自然と、言葉が口をついて出た。
「この力と……どう向き合えばいいのか」
玄翁は、しばらく蓮を見つめていた。
やがて、静かに口を開く。
「代償を、知る覚悟はあるか」
「代償……?」
「力は、必ず何かを奪う」
空気が、重くなる。
「寿命かもしれぬ。感情かもしれぬ。あるいは――」
一瞬、言葉を切る。
「普通の幸せ、かもしれん」
蓮の喉が鳴った。
(普通の幸せ……)
孤児だった自分にとって、それは遠い夢だったはずなのに。
それでも。
「……それでも、学びたいです」
蓮は、はっきりと言った。
「誰かを傷つける存在になるくらいなら、代償を知った上で、選びたい」
玄翁は、目を細める。
「よかろう」
そう言って、床に描かれた陣を指した。
「まずは、自分の中の龍を“見る”ことから始めよ」
蓮は、陣の中央に座る。
目を閉じる。
すると――
暗闇の中で、巨大な影が動いた。
(……これが)
金色の瞳が、こちらを見つめ返す。
恐怖よりも、圧倒的な存在感。
《お前は、我を拒むか》
声が、直接心に響いた。
(拒まない……でも、支配もしない)
蓮は、必死に言葉を紡ぐ。
(一緒に、生きたい)
沈黙。
やがて、龍は低く唸った。
《……代償を、払う覚悟は》
(逃げない)
(奪うためじゃない。守るために)
その瞬間、胸を締めつけるような痛みが走った。
「――っ!」
現実に引き戻され、蓮は息を荒くする。
玄翁が、静かに告げた。
「今、最初の代償が刻まれた」
「……何が?」
「力を使うほど、感情の揺れが激しくなる」
「え……」
「喜びも、怒りも、悲しみも……常人より深くなる」
蓮は、呆然とした。
「それは……」
「苦しみも、同じだ」
沈黙が落ちる。
景耀が、一歩前に出た。
「それでも、進むか」
蓮は、胸に手を当てる。
確かに、感情が渦巻いている。怖い。苦しい。それでも――
「はい」
即答だった。
「感じる痛みも、恐れも……私が生きている証です」
玄翁は、静かに頷いた。
「ならば、道は閉ざされておらぬ」
蓮は、その言葉を胸に刻む。
(代償は、払う)
(それでも、私は――)
帝国の未来と、自分自身の選択を、決して手放さないために。
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