第8章「揺れる帝国」 後編(3/3)
夜明け前の空は、まだ青とも黒ともつかない色をしていた。
後宮の一角――血の匂いがかすかに残る回廊に、静寂が戻りつつある。倒れた反逆者たちはすでに拘束され、灯籠の火だけが、ゆらゆらと床を照らしていた。
蓮は、その場に立ち尽くしていた。
胸の奥が、まだ熱い。
(……落ち着いてきた、けれど……)
体の内側にあった“何か”が、完全に消えたわけではない。龍の血が呼応した感覚は、今も確かに残っている。
「蓮」
名を呼ばれ、はっとして顔を上げた。
景耀が、ゆっくりと歩み寄ってくる。剣はすでに鞘に収められていたが、その表情は、戦いの余韻を残していた。
「怪我はないか」
「……はい」
声が少し掠れた。
「怖かった?」
問いかけは、皇帝としてではなく、一人の男としてのものだった。
蓮は、少し考えてから頷いた。
「怖かったです。足が震えて……何度も逃げたくなりました」
正直な言葉だった。
「でも」
そう続けた瞬間、胸に熱が込み上げる。
「誰かが傷つくのは、もう嫌だった。だから……立っていました」
景耀は、何も言わずに彼女を見つめていた。
やがて、深く息を吐く。
「強くなったな」
「……強くなんて」
首を振りかけて、言葉が詰まる。
「いえ……違います」
蓮は、顔を上げ、真っ直ぐに彼を見た。
「強くならなきゃ、いけなくなったんです」
その言葉に、景耀の目がわずかに揺れた。
「……そうか」
短くそう答え、彼は蓮の肩に手を置いた。
「ならば、もう一つだけ伝えておこう」
「?」
「帝国は、これからさらに揺れる」
蓮は、静かに息をのむ。
「今夜の反乱は、氷山の一角にすぎない。龍の血が動いた以上、隠れていた者たちは、必ず姿を現す」
「……私を、狙って?」
「ああ」
否定はなかった。
「だが、同時に――お前を“希望”と見る者も、確実に増える」
蓮は唇を噛みしめた。
(希望……)
そんな大それたものを、自分が背負っていいのだろうか。
「陛下」
声が、自然と小さくなる。
「私は……正しい選択ができるでしょうか」
「分からない」
景耀は即答した。
「正しさなど、後にならなければ分からぬ」
一拍置き、続ける。
「だが、お前が迷い、悩み、それでも誰かを守ろうとする限り――帝国は間違った方向には進まない」
その言葉に、蓮の目が潤む。
「そんなふうに……信じてくれるんですか」
「信じている」
迷いのない声だった。
「だからこそ、お前を妃としてではなく、“共に立つ存在”として選んだ」
胸の奥で、何かがほどけた。
(私は……一人じゃない)
その時、静かに足音が近づいてきた。
「陛下」
魏凌だった。
「捕らえた者たちの取り調べが終わりました」
「報告せよ」
「背後にいたのは、旧王族派の残党です。龍の血を“神器”として扱い、帝国を操ろうとしていました」
蓮の背中に、冷たいものが走る。
「彼らは……私を人として見ていなかった?」
魏凌は、言葉を選ぶように一瞬沈黙し、頷いた。
「残念ながら」
蓮は目を閉じた。
怒りよりも、悲しみが先に来た。
(それでも……)
目を開け、静かに言う。
「だからこそ、私は選びたい」
景耀と魏凌の視線が、同時に彼女へ向く。
「血ではなく、力でもなく……私自身の意思で」
「何を、選ぶ?」
景耀が尋ねた。
蓮は、深く息を吸い込む。
「私は、帝国を支える存在になります」
震えは、なかった。
「命じられるからではなく、利用されるからでもなく……守りたい人たちが、ここにいるから」
景耀は、ゆっくりと目を細めた。
「後悔はしないか」
「……後悔することは、あると思います」
そう答えてから、微かに笑う。
「でも、逃げた後悔よりは、前に進んだ後悔を選びます」
一瞬の沈黙。
そして――
「見事だ」
景耀は、そう言って蓮の前に片膝をついた。
「皇帝としてではない。一人の男として、願う」
周囲が息をのむ。
「私と共に、この帝国を導いてほしい」
蓮の目から、涙がこぼれ落ちた。
「……はい」
声が震える。
「至らないことばかりですが……それでも、共に歩みます」
景耀は立ち上がり、そっと彼女の手を取った。
その手は、温かかった。
夜明けの光が、回廊の先から差し込み始める。
長く、不安に満ちた夜が、ようやく終わろうとしていた。
蓮は、その光を見つめながら、静かに思う。
(私は、孤児だった)
(守られるだけの存在だった)
(けれど今は――)
「未来を選ぶ者だ」
自分の声が、確かに聞こえた。
帝国は、まだ揺れている。
だがその中心に、確かに“意志”が芽生えた。
龍の血を引く妃・蓮は、もはや運命に流されるだけの少女ではない。
――揺れる帝国は、ここから、新たな時代へと踏み出す。
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