第8章「揺れる帝国」 中編(2/3)

夜が落ちると、後宮は別の顔を見せる。


昼間の華やぎは消え、灯籠の光が作る影だけが、長い回廊に伸びていた。どこかで風が鳴り、木々の葉が擦れる音が、不安を煽るように響く。


蓮は自室に戻されていた。


「……静かすぎる」


思わず呟いた声が、広い室内に吸い込まれていく。侍女たちは最小限に抑えられ、戸口には武官が配置されている。守られているはずなのに、心は落ち着かなかった。


(不審な動き……)


魏凌の言葉が、頭の中で何度も反芻される。


「蓮妃様、お茶を」


侍女の一人が差し出した湯気の立つ茶杯に、蓮は一瞬だけ視線を落とした。


「……ありがとう」


受け取りはしたものの、唇をつける気にはなれない。胸の奥に、小さな警鐘が鳴っていた。


(疑うなんて……嫌なのに)


誰かを信じることを、これほどまでに慎重にならなければならない自分が、悲しかった。


その時、外から微かな物音がした。


「今の……?」


侍女たちも顔を見合わせる。


次の瞬間。


「――きゃっ!」


短い悲鳴とともに、灯籠の一つが消えた。


室内の光が一気に揺らぎ、闇が忍び寄る。


「陛下の命だ! 蓮妃様をお守りしろ!」


外で武官の声が響く。剣がぶつかり合う音が、夜気を裂いた。


蓮の心臓が、激しく脈打つ。


(来た……!)


恐怖が喉元までせり上がる。それでも、足はすくまなかった。


(逃げないって……決めたでしょう)


そう自分に言い聞かせた瞬間、背後の戸が、きしりと音を立てて開いた。


「……誰?」


振り返った先に立っていたのは、意外な人物だった。


「あなた……」


「声を出さないで」


低く囁いたのは、かつて蓮に親しく接していた女官――翠玉(すいぎょく)だった。


「翠玉、どうして……」


「時間がありません」


彼女の表情は、これまで見たことのないほど切迫していた。


「今夜、この後宮で“血”が流れます」


蓮の背中に、冷たいものが走る。


「それって……」


「狙われているのは、あなたです」


分かっていた答え。それでも、はっきりと告げられると、胸が締めつけられる。


「私が……龍の血を持っているから?」


翠玉は一瞬、目を伏せた。


「……はい。でも、それだけではありません」


「どういうこと?」


「陛下を排除し、あなたを傀儡に据えようとする勢力がいます。あなたが生きていれば、帝国を動かせると考えている者たちが」


「そんな……」


蓮の声が震える。


「陛下は……?」


「今、別の場所で足止めされています。だから――」


翠玉は、ぎゅっと拳を握った。


「私がここに来ました」


「……なぜ?」


疑問が、自然と口をついて出た。


「あなたを助ける理由が、分かりません」


翠玉は、苦笑にも似た微笑を浮かべる。


「昔、あなたが孤児院で……泣いている子に、自分の食事を分け与えていた話、覚えていますか」


蓮は目を見開いた。


「どうして、それを……」


「あの子は、私の弟です」


静かな告白だった。


「……え」


「あなたは覚えていないでしょう。でも、あの時のあなたの笑顔が、弟を救いました」


翠玉の声は、わずかに震えていた。


「だから今度は、私があなたを守る番です」


蓮の胸が、熱くなる。


(人の縁って……こんなにも、深くつながっている)


「……ありがとう」


その言葉に、翠玉は小さく頷いた。


「ついてきてください。裏の回廊から、避難できます」


だが、その瞬間。


「――それ以上、動くな」


冷たい声が、闇の奥から響いた。


現れたのは、黒衣の男たち。目元だけを覆い、剣を構えている。


「やはり、ここにいたか」


男の一人が、嘲るように笑った。


「龍の妃。大人しく従えば、命までは取らない」


蓮は、一歩前に出た。


自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。


「……私をどうするつもり?」


「簡単な話だ」


男は肩をすくめる。


「我々の“象徴”になってもらう。それだけだ」


「断ったら?」


「その時は――」


男の視線が、翠玉へと向く。


「周囲の人間から、消えてもらう」


蓮の中で、何かが切れた。


(これ以上、誰かを犠牲にはしない)


胸の奥が、熱を帯びる。


「……やめて」


自分の声が、低く響いた。


「私の血が欲しいなら、私だけを見なさい」


男たちが、わずかにたじろぐ。


「蓮妃様……!」


翠玉が叫ぶ。


その瞬間、蓮の体の奥で、確かに“何か”が目覚めた。


熱い。痛い。けれど、恐ろしくない。


(これが……龍の血……)


空気が震え、灯籠の火が大きく揺れた。


男たちは、思わず後ずさる。


「ば、馬鹿な……まだ覚醒は――」


「遅い」


低く、威厳ある声が響いた。


「私の妃に、触れるな」


闇を切り裂くように現れたのは、景耀だった。


剣を抜き放ち、その背後には皇帝直属の精鋭たちが控えている。


「陛下……!」


蓮の声が、かすれる。


景耀は一瞬だけ、彼女を見た。その眼差しは、深い安堵と怒りに満ちていた。


「よく耐えたな」


そう言ってから、男たちへと向き直る。


「反逆者ども。ここが終わりだ」


剣戟の音が、夜を裂いた。


蓮は、その光景を見つめながら、胸に湧き上がる感情を抑えきれなかった。


(私は……守られるだけの存在じゃない)


恐怖も、迷いも、まだ消えてはいない。


けれど――自分の中に、確かに「立ち向かう意志」が芽生えている。


それを、はっきりと自覚していた。

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