第8章「揺れる帝国」 前編(1/3)
春の後宮は、表向きには穏やかだった。
紅梅と白梅が入り混じる庭園には柔らかな香りが漂い、回廊を渡る風は、薄絹の衣をわずかに揺らすだけで去っていく。女官たちの足音は静まり、笑みは慎重に整えられていた。
――だが、その静けさは、薄氷のように張りつめている。
蓮は、長い回廊の端に立ち、遠くの池を見つめていた。水面には空が映り、雲がゆっくりと流れている。その様子は穏やかなのに、胸の奥だけがざわついて落ち着かなかった。
(……何かが、動いている)
理由は分からない。ただ、背中に冷たい気配がまとわりつく感覚が消えない。
「蓮妃」
背後から声がかかり、蓮は小さく肩を震わせた。
「陛下……」
振り返ると、そこには皇帝・景耀(けいよう)が立っていた。金糸を織り込んだ衣は簡素でありながら威厳に満ち、鋭い眼差しは常と変わらない。しかし、今日の彼の表情には、わずかな疲労の影が見えた。
「こんなところに一人でいるとは珍しいな」
「少し、風に当たりたくて……」
蓮はそう答えながらも、胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じていた。最近、景耀は政務に追われ、後宮に姿を見せる時間が減っている。会える喜びよりも、不安の方が先に立ってしまう自分がいた。
景耀は蓮の前に立ち、池を見やる。
「最近、後宮の空気が重い。感じているだろう」
「……はい」
隠す必要はなかった。蓮は正直に頷いた。
「女官たちの視線が、以前より鋭くなった気がします。何も言われていないのに、責められているようで……」
「それは、お前のせいではない」
景耀はきっぱりと言い切った。
「帝国そのものが、揺れている」
その言葉に、蓮の指先がわずかに震えた。
「揺れている……?」
「ああ。龍脈の乱れ、各地の不作、そして――皇族内部の不穏な動き」
最後の言葉は、低く抑えられていた。
蓮は息をのんだ。皇族内部、という言葉が示す意味を、彼女なりに理解してしまったからだ。
(私の存在……)
龍の血。
それを巡って、これまで何度も命を狙われた。表向きには沈静化したかに見えても、決して終わってはいなかったのだ。
「……私が、原因なのでしょうか」
蓮は自分でも驚くほど、弱々しい声でそう問いかけていた。
景耀は即座に否定する。
「違う」
彼は蓮の肩に手を置き、真っ直ぐに見つめた。
「お前は引き金ではあっても、原因ではない。帝国の歪みは、ずっと以前から積み重なっていた」
「でも……」
「蓮」
名前を呼ばれただけで、胸が熱くなる。
「お前が自分を責める必要はない。私は皇帝として、そして……」
一瞬、言葉が途切れた。
「……一人の男として、お前を守ると誓った」
蓮の目が大きく見開かれる。
その言葉は、重く、そして温かかった。
「陛下……」
「だが、そのためには、お前にも覚悟が必要だ」
景耀の声は穏やかだが、逃げ場を与えない強さを帯びていた。
「覚悟……ですか」
「ああ。これから先、お前は否応なく、帝国の中心に立たされる。龍の血を持つ妃としてではない。――未来を選ぶ者としてだ」
蓮は唇を噛みしめた。
(未来を、選ぶ……)
孤児だった頃、明日の食事すら分からなかった自分が、帝国の未来を選ぶ立場になるなど、想像もしていなかった。
「……怖いです」
正直な気持ちが、言葉になってこぼれ落ちる。
「何が起こるのか分からない。誰を信じていいのかも……」
景耀は静かに頷いた。
「それでいい。恐れを感じない者など、信用できん」
彼は少しだけ、柔らかな笑みを浮かべた。
「怖いと思えるからこそ、人は誤らずに進める」
その言葉に、蓮の胸の奥が少しだけ軽くなる。
だが、その安堵は長く続かなかった。
回廊の向こうから、慌ただしい足音が近づいてきた。
「陛下! 失礼いたします!」
現れたのは、側近の尚書・魏凌(ぎりょう)だった。普段は冷静沈着な彼の顔に、珍しく焦りが浮かんでいる。
「何事だ」
「各地から、同時に急報が入りました」
魏凌は一礼し、低い声で続ける。
「南方で反乱の兆し。西では龍脈に異変。そして――」
一瞬、言葉を切り、蓮をちらりと見た。
「後宮内で、不審な動きが確認されています」
蓮の背筋に、冷たいものが走った。
景耀は一歩前に出る。
「詳しく聞こう」
「はっ」
魏凌は頷き、蓮に一礼してから言った。
「蓮妃様。今夜は、外出を控えられた方がよろしいでしょう」
「……分かりました」
答えながら、蓮は胸の奥で小さく息を吸い込んだ。
(始まる……)
それが何なのか、はっきりとは分からない。
だが、帝国も、後宮も、そして自分自身も――もう後戻りはできないところまで来ている。
池の水面に映る空は、いつの間にか雲に覆われ、光を失っていた。
蓮はその暗い水面を見つめながら、そっと拳を握りしめた。
(私は……逃げない)
この場所で、この運命と向き合うと、心の奥で静かに誓いながら。
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