第7章 力の代償(前編)

最初の異変は、夢だった。


 燃えるような赤い空。

 大地を覆う影。

 耳を裂くほどの咆哮が、何度も何度も胸の奥を震わせる。


(――来るな)


 そう叫んだはずなのに、声にならない。


 巨大な瞳が、闇の向こうで光る。

 それは怒りでも憎しみでもなく、ただ――呼んでいた。


(私を……?)


 次の瞬間、蓮は喉を詰まらせて跳ね起きた。


「……っ、は……!」


 呼吸が乱れ、額から冷たい汗が伝う。

 胸の奥が、焼けるように熱い。


 布団の上で身を起こそうとした瞬間、指先が淡く光った。


「……?」


 驚きで、息が止まる。


 指先から、かすかな紅色の光が滲んでいた。

 灯籠の火とは違う。

 生き物の鼓動のように、脈打っている。


「……龍の、血……」


 震える声で呟いた瞬間、光はすっと消えた。


 ――代わりに、強烈な倦怠感が押し寄せる。


「……動け、ない……」


 身体が鉛のように重い。

 まるで、力を吸い取られたかのようだった。


 その朝、蓮は起き上がることができなかった。


「妃様!」


 小翠の慌てた声が、遠くで響く。


「顔が……熱が……!」


「だ、大丈夫……」


 そう言おうとして、声が掠れた。


 小翠の手が額に触れ、息を呑む気配が伝わる。


「これは……すぐに医官を!」


 蓮は、首を横に振ろうとしたが、それすら叶わない。


(暁明……)


 呼びたい名が、胸の奥で絡まる。


 やがて医官が呼ばれ、脈を取り、顔を曇らせた。


「外傷も病も、見当たりません」


「では、なぜ……!」


 小翠の声が、震える。


「……力の反動でしょう」


 医官は、慎重に言葉を選んだ。


「龍の血が、目覚め始めています」


 その言葉に、部屋の空気が凍りついた。


「目覚める、とは……」


「感情の高ぶり、強い意志。それらが引き金になります」


 蓮は、ゆっくりと目を閉じた。


(昨夜の……)


 暁明と交わした言葉。

 選ぶ覚悟。

 縛られてもいいと告げた瞬間。


 ――あれが、引き金だった。


「妃様」


 小翠が、そっと手を握る。


「怖いですか」


 蓮は、しばらく黙っていた。


 怖くないと言えば、嘘になる。

 だが、それ以上に――。


「……奪ってしまうのが、怖い」


 誰の命を。

 誰の日常を。


 自分が、災いになることが。


 その頃、書殿では暁明が報告を受けていた。


「龍の血が、動き始めた……?」


 低い声が、室内に響く。


「はい。すでに複数の勢力が察知しています」


 側近の張廉が、表情を硬くして答えた。


「もはや、隠しきれません」


 暁明は、拳を握りしめた。


(早すぎる……)


 まだ、心の準備が整っていない。


「陛下」


 張廉が、躊躇いがちに続ける。


「妃を“守る”方法は、限られています」


 暁明は、顔を上げた。


「言え」


「……力を、制御させるしかありません」


 その意味を、暁明は理解していた。


 制御とは、鍛錬であり、管理であり――

 時に、拘束を伴う。


「それは……」


 言葉が、喉で止まる。


「妃を、道具にする選択でもあります」


 沈黙が落ちた。


 暁明の脳裏に、蓮の言葉が蘇る。


――想われる檻を選びます。


(……私は)


 守ると誓った。

 だが今、守るために壊さねばならないものがある。


「……まだだ」


 暁明は、低く言った。


「まだ、決めない」


 その決断が、さらなる代償を呼ぶことを、彼はまだ知らない。


 一方、蓮の部屋では、再び指先が光り始めていた。


 今度は、抑えきれない。


「……っ、あ……!」


 熱が、身体中を駆け巡る。


 龍の血は、確かに目覚めていた。


 そしてそれは、

 優しく目覚める力では、なかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る