第6章 愛と誓い(後編)
暁明が部屋を去ったあとも、蓮はしばらく動けずにいた。
彼の体温が、まだ腕の中に残っている気がしたからだ。
(……誓えない)
その言葉が、胸の奥で何度も反響する。
愛していると言わないことが、優しさになる。
そんな関係が、この世に存在するのだろうか。
後宮という場所では、それが現実だった。
翌朝、蓮は侍女の小翠とともに、庭へ出ていた。
朝露に濡れた石畳が淡く光り、空気はひんやりとしている。
「昨夜、陛下がお越しだったと聞きました」
小翠の声は、探るようでもあり、心配するようでもあった。
「……少し、話を」
それ以上は言えない。
言葉にした瞬間、何かが壊れてしまいそうだった。
「妃様」
小翠は、周囲を確認してから、声を落とす。
「最近、動きが怪しい者が増えています」
蓮の背筋が、ひやりとした。
「龍の血を狙う勢力……」
「はい。後宮の内にも、外にも」
平穏な庭の風景が、急に薄氷の上に思えた。
(守る、という言葉)
暁明が口にしたその意味が、胸に重くのしかかる。
その日の夕刻、蓮は呼び出しを受けた。
場所は、後宮の奥にある小さな書殿。
中に入ると、暁明が一人、机に向かっていた。
「来てくれて、ありがとう」
公の場では決して見せない、疲れた声音。
「……陛下」
距離を保とうとする自分と、近づきたい自分が、せめぎ合う。
「いや」
暁明は、静かに首を振った。
「今は、皇帝として話をする」
その一言で、空気が変わった。
「近々、お前の護衛を増やす」
「それは……」
「拒否は許されない」
冷たい口調だった。
昨夜の温もりが、嘘のように遠い。
「後宮から、外へ出すことも考えている」
蓮の胸が、大きく揺れる。
「……私を、遠ざけるのですか」
暁明は、視線を逸らした。
「守るためだ」
その言葉に、蓮は一歩、前に出た。
「それは……私を、信じていないということですか」
「違う」
即答だった。
「お前を信じているからこそ、危険から離したい」
蓮は、拳を握りしめた。
「私は……守られるだけの存在では、ありません」
声が、震える。
「陛下の隣に立つ覚悟で、ここにいます」
暁明は、ゆっくりと立ち上がった。
「それが、どれほど重い覚悟か……」
彼は、蓮の前に立つ。
「私は、皇帝だ。多くを犠牲にする立場にある」
「それでも」
蓮は、目を逸らさなかった。
「私を、選んでほしい」
沈黙が落ちる。
暁明の表情が、わずかに歪んだ。
「……選べば、お前を縛る」
「縛られても、いい」
即答だった。
自分でも、驚くほど迷いがなかった。
「愛されない自由より、想われる檻を選びます」
その言葉に、暁明は息を詰めた。
「……蓮」
名を呼ぶ声が、かすれる。
「それは、後悔する道だ」
「後悔しても、私の選択です」
暁明は、しばらく蓮を見つめていた。
その瞳に、皇帝としての理性と、一人の男としての感情が交錯する。
やがて、彼は深く息を吸った。
「……分かった」
低く、重い声。
「私は、お前を手放さない」
蓮の胸が、強く脈打つ。
「だが、誓いの言葉は口にしない」
「……はい」
「代わりに」
暁明は、蓮の額に、そっと唇を触れさせた。
「この命が続く限り、お前を守る」
それは、愛の告白ではない。
だが、誓い以上に重い約束だった。
蓮は、目を閉じた。
(これでいい)
甘い言葉よりも、重い現実を選んだ。
後宮の外では、静かに嵐が近づいている。
龍の血を巡る争いは、もう避けられない。
それでも――。
蓮は、暁明の胸に顔を埋めた。
「……一人では、立ちません」
「私もだ」
短い言葉が、確かに交わされた。
愛と誓いは、同じ形をしていなくてもいい。
そう信じた夜が、静かに更けていった。
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