第6章 愛と誓い(後編)
第6章 愛と誓い(中編)
暁明の手が、蓮の頬に触れたまま、動かない。
それは、ためらいだった。
皇帝という立場にある男が、妃に触れることを躊躇する。
その事実が、蓮の胸を締めつけた。
「……陛下」
そう呼ぶと、暁明の眉がわずかに動いた。
「今は、名で」
「……暁明」
声に出すたび、その名が胸の奥に沈んでいく。
暁明は、ようやく指を滑らせ、蓮の頬から顎へ、輪郭をなぞった。
羽が触れるような、あまりにも優しい動き。
「こうして触れるのは、久しいな」
「……はい」
蓮は、目を伏せた。
視線を合わせてしまえば、自分の感情が、すべて溢れてしまいそうだった。
「後宮に入ったばかりの頃は、私を見るたびに怯えていた」
「……覚えています」
「それでも、逃げなかった」
暁明の声が、わずかに低くなる。
「なぜだ」
問いは責めるものではなく、知ろうとするものだった。
蓮は、しばらく黙り込んだ。
すぐに言葉にできる理由ではない。
「……行く場所が、なかったから」
ようやく絞り出した答えに、暁明の指が止まる。
「孤児院を出た時、私は一人でした。後宮は怖かった。でも……」
喉が詰まり、言葉が途切れる。
「それでも、戻る場所よりは、前に進むしかなかった」
暁明は何も言わず、蓮の言葉を待った。
「陛下は……私を、拒まなかった」
その瞬間、暁明の指先が、わずかに震えた。
「それは……」
彼は言いかけて、言葉を飲み込む。
「それは、私の弱さだ」
「違います」
蓮は、思わず声を強めた。
「少なくとも、私にとっては……救いでした」
沈黙が落ちる。
灯籠の火が揺れ、二人の影が重なった。
暁明は、ゆっくりと手を引こうとした。
その動きを、蓮が止めた。
――自分でも、驚くほど自然な動作だった。
「……蓮」
名を呼ばれただけで、胸が熱くなる。
「離れたく、ありません」
蓮は、目を上げた。
暁明をまっすぐ見つめる。
「今だけでいい。今だけは……ここにいてください」
暁明の瞳が、深く揺れる。
「それは……許されない」
「分かっています」
分かっているからこそ、胸が痛む。
「でも……」
蓮の声は、ほとんど囁きだった。
「陛下も、同じ顔をしています」
暁明は、苦しげに息を吐いた。
「……お前は、残酷だな」
そう言いながら、彼は蓮の手を取る。
温かい。
大きくて、確かな温もり。
「この手を、離さなければ」
暁明は、自分に言い聞かせるように言った。
「私は、お前を守れる」
「……それは、私を縛ることですか」
問いは、鋭かった。
暁明は、言葉を失う。
「守ることと、縛ることは……違うと、思っていました」
蓮は、静かに続けた。
「でも、後宮では……それが、とても近い」
暁明は、蓮の手を強く握りしめた。
「だからこそ、私は誓えない」
「……誓い?」
「愛を」
その一言が、胸を打つ。
「軽々しく口にすれば、お前を縛る鎖になる」
暁明の声は、低く、重かった。
「それでも、想っている」
はっきりと告げられた言葉に、蓮の視界が揺れる。
「暁明……」
次の瞬間、胸の奥が焼けるように熱くなった。
(――来る)
蓮は、息を詰める。
血が、騒ぐ。
身体の奥から、何かが目覚める感覚。
「……っ」
足元が、ふらついた。
「蓮!」
暁明が、すぐに支える。
触れた瞬間、熱が一気に伝わった。
「龍の血が……」
蓮は、歯を食いしばる。
「感情が強くなると……制御が、難しく……」
暁明の表情が、険しくなる。
「だから、私は……」
蓮は、彼の胸元に額を預けた。
「近づきすぎるのが、怖いんです」
暁明は、何も言わず、ただ蓮を抱き寄せた。
強くはない。
しかし、拒絶でもない。
「……離れよう」
暁明が、静かに言った。
「今は、これ以上進めない」
蓮は、頷いた。
寂しさよりも、納得が勝っていた。
これは、逃げではない。
互いを壊さないための、選択だ。
「……それでも」
蓮は、そっと言った。
「想ってくれていることだけは……忘れません」
暁明は、わずかに笑った。
「忘れられるものなら、私が忘れたい」
その言葉が、胸に残る。
抱き合ったまま、二人はしばらく動かなかった。
誓えない愛が、確かにそこにあった。
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