第6章 愛と誓い(前編)
後宮の夜は、昼とは別の顔を持っていた。
昼間は金と朱に彩られた絢爛な檻であり、夜になると、それは静かに呼吸する巨大な生き物のように変わる。回廊を撫でる風の音、遠くで鳴る鈴のかすかな余韻、灯された灯籠が揺れるたび、影が壁に踊った。
蓮は、自分の胸の内が、その闇と同じ色をしていることに気づいていた。
(……眠れない)
布団に横たわっていても、瞼の裏に浮かぶのは皇帝――劉暁明の顔ばかりだった。
穏やかな声音。鋭さを隠した眼差し。玉座に座る姿ではなく、ふとした拍子に見せる、人としての疲れた横顔。
思い出すたび、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
「……どうして」
小さく零した声は、誰にも届かない。
届いてはいけない声だった。
ここは後宮だ。
想いを向けていい相手と、そうでない相手の区別くらい、蓮にも理解できている。
それでも――理解と感情は、必ずしも一致しない。
龍の血のことを知ってから、皇帝の視線が以前より深くなった気がしていた。
憐れみでも、警戒でもない。
まるで、壊れやすいものを慎重に扱うような眼差し。
(あの人は……私を、どう思っているの)
答えを知るのが怖かった。
もしもそれが「政の道具」だと分かってしまえば、この胸のざわめきは、行き場を失ってしまう。
――控えめな衣擦れの音が、部屋の外から聞こえた。
「……?」
蓮が身を起こすと、几帳の向こうから低く抑えた声が届く。
「蓮。起きているか」
息が、止まった。
聞き間違えるはずがない。
この後宮で、その声を発することが許されているのは、ただ一人。
「へ、陛下……?」
「急にすまない。少し、話がしたい」
胸が激しく脈打ち始める。
夜に、私的に、皇帝が妃のもとを訪れる意味を、蓮が知らないはずがなかった。
侍女はすでに下がっている。
逃げ場はない。
それ以上に――逃げたいと思えなかった。
「……どうぞ」
声が震えたのを悟られないよう、蓮は深く息を吸った。
几帳が静かに上げられ、暁明が姿を現す。
昼の礼装ではなく、簡素な夜着姿。それがかえって距離の近さを強調していた。
「眠れなかったか」
「……少し」
嘘ではない。
理由を言っていないだけだ。
暁明はしばらく黙ったまま、部屋の中を見回した。
その沈黙が、蓮にはひどく長く感じられる。
「後宮に来てから、お前はよく耐えている」
不意に言われたその言葉に、蓮は目を見開いた。
「え……?」
「誰にも弱音を吐かず、誰も頼らず、それでも笑っている」
暁明の視線が、蓮を正面から捉える。
逃げられない。
逃げたくもない。
「……それが、妃の務めだと思っていました」
そう答えた瞬間、自分の声が、ひどく幼く聞こえた。
「違う」
即座に否定される。
「妃である前に、お前は一人の人間だ」
その言葉が、胸の奥に深く刺さった。
誰にも言われたことのない言葉だった。
「人は、強がりだけでは生きられない」
「……陛下」
名前を呼びそうになり、慌てて飲み込む。
それでも暁明は気づいたようだった。
「呼んでいい」
「え……?」
「名を。ここには、他に誰もいない」
その言葉は、許しであり、誘惑だった。
蓮の喉が、ひくりと鳴る。
「……暁明、さま」
たったそれだけで、世界の輪郭が変わった気がした。
暁明の目が、わずかに揺れる。
「蓮」
名を呼ばれただけで、心臓が跳ね上がる。
「お前を、危険に晒しているのは、私だ」
静かな声だった。
「龍の血のことが明るみに出てから、動きが激しくなった」
「……はい」
「それでも、私はお前を遠ざけなかった」
蓮は、息を詰めた。
「それが、どれほど身勝手か……分かっている」
暁明は一歩近づいた。
距離が、急速に縮まる。
「だが」
そこで言葉を切り、彼は蓮の目を覗き込む。
「それでも、手放せなかった」
蓮の胸が、音を立てて崩れた。
「陛下……それは……」
「聞かせてくれ」
低く、しかし切実な声音。
「お前は、私をどう思っている」
逃げ場は、完全になくなった。
答えれば、後戻りはできない。
答えなければ、この夜は永遠に心に残る。
蓮は、指先を強く握りしめた。
「……怖い、です」
正直な言葉が、零れ落ちる。
「この想いが、愛なのかどうかも分からない。でも……」
視界が滲む。
「陛下のそばにいると、安心してしまう自分が、怖いんです」
暁明は、何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと手を伸ばす。
その手が、蓮の頬に触れる直前で、止まった。
「……触れても、いいか」
問いかけが、あまりにも慎重で、蓮は思わず笑ってしまいそうになった。
「はい」
答えた瞬間、頬に温もりが伝わる。
その温度に、蓮の心は静かに、しかし確実に溶かされていった。
(――戻れない)
そう理解しながらも、離れたいとは思えなかった。
それが、愛の始まりだと、蓮はまだ知らない。
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