第5話 初めての試練
後宮の朝は、いつもより冷えていた。
空気が張りつめ、息を吸うたびに胸の奥がひりつく。
蓮は鏡の前で身支度を整えながら、その違和感を拭いきれずにいた。
(今日は……何かある)
理由はない。
ただ、胸の奥で龍の血が静かにざわめいている。
「蓮様」
杏が衣の紐を結びながら、控えめに声をかけた。
「顔色が……よくありません」
「……そう?」
「はい。少し、硬いです」
蓮は鏡越しに杏を見る。
真っ直ぐで、飾り気のない瞳。
「杏」
「はい」
「もし……私が何かに巻き込まれたら」
言葉を選びながら続ける。
「あなたは、自分の身を守って」
杏の手が止まった。
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味」
「それは……できません」
即答だった。
「私は、蓮様の侍女です」
「侍女だからこそ、よ」
蓮は振り返り、杏と向き合う。
「あなたまで傷つく必要はない」
杏はしばらく黙り込み、やがて唇を噛みしめた。
「……それでも」
「それでも?」
「私は……選びます」
その言葉に、蓮の胸が小さく鳴った。
「……ありがとう」
それ以上は言わなかった。
◆
その日、蓮は後宮の規律に基づく「奉納の儀」に参加することになっていた。
妃たちが順に、祖霊殿へ祈りを捧げる儀式だ。
華やかな場に見えて、実際は妃同士の格付けを誇示する場でもある。
「蓮様は、最後でございます」
翠鈴が淡々と告げる。
「……最後」
その配置に、嫌な予感が走った。
祖霊殿は、後宮の中でも特に古い建物だった。
人払いされた回廊は静まり返り、足音だけがやけに響く。
「杏」
「はい」
「少し、離れないで」
「……承知しました」
殿内に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
(……重い)
胸の奥が、きり、と締めつけられる。
香炉の煙が立ち上り、視界を曇らせる。
「……?」
蓮が一歩進んだ、その時だった。
足元が、沈んだ。
「——っ!」
床が崩れ、視界が反転する。
「蓮様!!」
杏の叫び声が遠ざかる。
落下。
衝撃。
暗闇。
◆
意識が戻ったとき、冷たい石の感触が背中にあった。
「……っ」
起き上がろうとすると、全身に鈍い痛みが走る。
(……生きてる)
それだけで、息が漏れた。
周囲は、祖霊殿の地下にある古い通路のようだった。
壁には苔が生え、長い年月、使われていないことがわかる。
「……罠」
誰かが、意図的に。
その瞬間、足音が響いた。
「目覚めたか」
暗がりから現れたのは、見覚えのある妃だった。
以前、蓮に刺のある言葉を向けた女。
「……あなたが」
「察しがいいわね」
妃は微笑む。その笑みは、冷たかった。
「龍の血。噂は本当だったようね」
背筋が凍る。
「……どこまで、知っているんですか」
「必要なことは、十分に」
妃は扇を開き、ゆっくりと歩み寄る。
「あなたは危険なのよ。存在そのものが」
「……だから、殺す?」
「いいえ」
妃は首を振った。
「奪うの」
その言葉と同時に、数人の影が現れた。
◆
恐怖が、喉を締めつける。
(……逃げなきゃ)
だが、足が動かない。
「怖いでしょう?」
妃の声が、やけに優しく聞こえる。
「でも……それが、あなたの価値」
次の瞬間、蓮の胸が熱を帯びた。
「……っ」
龍の血が、反応している。
(落ち着いて……制御して……)
翡翠の言葉を思い出す。
深く息を吸い、吐く。
恐怖の奥に、別の感情が浮かび上がった。
(……怒り)
理不尽に奪われることへの拒絶。
「……私は、奪われるために生きているわけじゃない」
声が、震えながらも響いた。
「生意気ね」
妃が合図を送る。
影が、一斉に襲いかかる。
◆
その瞬間、蓮の中で何かが弾けた。
熱が、血管を駆け巡る。
視界が、赤金色に染まる。
「……っ!!」
衝撃波のような力が、周囲を弾き飛ばした。
「な……!」
男たちが壁に叩きつけられる。
蓮は、膝をつきながらも立ち上がった。
(……怖い……でも……)
守りたい。
自分の命を。
そして——杏を。
「……化け物……!」
妃の声が、歪む。
「違う」
蓮は、真っ直ぐ妃を見た。
「私は……生きる」
その瞬間、足音が駆け寄ってくる。
「蓮様!!」
杏だった。
縄を切り、必死の形相で駆け込んでくる。
「……来ちゃだめだって、言ったのに」
「それでも……!」
杏の目には、涙が浮かんでいた。
「一人にしないって、決めましたから!」
その言葉が、胸を打つ。
◆
その後のことは、あまり覚えていない。
皇帝直属の兵が駆けつけ、妃と実行犯は拘束された。
地下通路は封鎖され、事件は極秘裏に処理された。
蓮は、自室で目を覚ました。
「……杏」
「はい。ここにいます」
杏の声が、すぐそばにあった。
「……生きてる」
「もちろんです」
杏は、泣き笑いのような表情を浮かべる。
「蓮様が、守ってくださいましたから」
「……私が?」
「はい」
その言葉に、蓮は目を閉じた。
◆
夜、皇帝が訪れた。
「初めての試練だったな」
「……はい」
「恐怖はあったか」
「ありました」
正直に答える。
「それでも、立った」
「……立たされました」
皇帝は、わずかに笑った。
「違う。お前は、選んだ」
その言葉に、胸が震える。
「これから先、同じことが何度も起きる」
「……覚悟しています」
「ならば」
皇帝は、静かに告げた。
「お前はもう、守られるだけの妃ではない」
蓮は、深く息を吸った。
「……はい」
孤児の少女は、この日、初めて理解した。
力とは、恐怖と共に引き受けるものだということを。
そして、守りたいものがある限り、人は立ち上がれるのだと。
初めての試練は、終わった。
だが、それは始まりに過ぎない。
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