第8話 黄昏のグレン

ゴーレムが崩れ落ちた轟音の余韻。 天を仰ぎ、バルコニーで腹を抱える老人を睨みつける。


(…この、性格破綻者が…!)


「キャッハハハ!その顔、その顔!最高じゃ! さあ、入ってこい、客人!歓迎の茶くらいは淹れてやろう!」


有無を言わさぬ声に、フェンリルと塔へ足を踏み入れる。 中は、外観以上に奇天烈だった。


床、壁、天井、全てを埋め尽くす本棚。 宙に浮かぶ天球儀。 物理法則を無視して捻じ曲がる階段。


「遅かったのう、ハーヴィー・グリマルド。いや、元・勇者殿」


中央の安楽椅子。グレンは一瞥もせずに言い放つ。 ルシファーズ・ハンマーを構えようとして、膝から力が抜ける。 傷と疲労が限界だった。


「おっと、そうじゃった。まずは治療が先か」


面倒くさそうに指が鳴る。パチン、と。 柔らかな光が体を包む。


(…やはり。相変わらず、こいつの《賢聖の法》だけは拒絶しねぇ)


いかなる神聖魔法、治癒魔法をも「異物」として弾くこの肉体。 だが、この老人のそれは「治癒」ですらない。 「魔法」というより、理(ルール)の書き換え。


「怪我など、初めからなかった」という歴史(事実)へ、強引に「事象を修正」する力。 抗う間もなく、両脚を貫いた矢傷が、時間を巻き戻すように塞がっていく。


「さて、問題はその左目じゃな」


グレンが顔を覗き込む。


「ふむ。ライザの光の一閃か。こりゃもう治らんな。 儂の《賢聖の法》でも、失われたもんは戻せん」


本棚から小箱と、黒い眼帯が取り出される。 小箱の中には、透き通るようなガラス玉。


「ほれ。ただの義眼じゃが、無いよりはマシじゃろう。 ついでに眼帯もやる。隻眼の銃神、なかなか様になるではないか」


あっという間に治療が終わる。 次に、革袋が足元へ放り投げられた。 ずっしりと重い鉛玉が100発ほど。数枚の羊皮紙。


「弾と、回復のスクロールじゃ。礼は要らん。 儂の退屈を紛わしてくれた褒美じゃ」


全てがお見通し。 この老人は、全てを理解した上で遊んでいたのだ。


「…グレン」


意を決して口を開く。


「力を貸してくれ。 ダルクニクスの陰謀を暴き、アーシェを救い出す。 あんたの知恵と力が必要だ」


真剣な眼差し。 だが、グレンは心底つまらなそうに、即答した。


「嫌じゃ」


「…は?」


「面倒じゃからのう。 儂はもう、俗世のいざこざは御免なんじゃよ」


交渉の余地すらない、清々しいほどの拒絶。 言葉を失う俺に、グレンはニヤリと笑う。


「だが、まあ、助言くらいはしてやろう」 「まず、その名前を捨てろ。『ハーヴィー・グリマルド』は、もう死んだ男じゃ」 「今からお主は…そうさなぁ…。 よし、決めた!たった今からお主は、オルドニュス・バーレイグじゃ!」


「はぁーー⁉」


「はい、決まり!異論は受け付けん!」


楽しそうに手を叩くグレン。


「ついでに二つ名もくれてやろう。『深淵のバーレイグ』! どうじゃ、カッコよかろう!」


「はぁーー⁉」


天を仰ぐ。 グレンは、そんな反応を無視して、ふと真顔になる。 瞳の奥に、「黄昏」の名の由来となった、底知れない叡智の光が宿る。


「では、『深淵のバーレイグ』よ。 おふざけはここまでとして、お主にしか出来ぬ宿命の話をしよう」


空気が変わる。 ゴクリと喉が鳴った。


「『黙示録の魔女』の名を聞いたことがあるか?」


「…いや」


「そうか。まあ、無理もない。 彼女たちは、歴史の闇に封印された存在じゃからな」


グレンは語り始めた。


「バーレイグよ。 封印されし七人の『黙示録の魔女達』を解放し、救い出せ」


「それが、お前にしか出来ぬ使命。 ダルクニクスの陰謀を遥かに超える、この世界の真の危機に立ち向かう、本当の戦いになる」


「そして…」


こちらの心を読んだように、言葉が続く。


「そうすることで、いずれアーシェを救う道にも繋がる」


目を見開く。 黙示録の魔女? 世界の危機? アーシェ…? 唐突で、壮大すぎる話。 言葉を発する前に、グレンは面倒くさそうに手を振った。


「あっ、言っとくが、 なぜ魔女たちが封印されたのか、 なぜお前にしか出来ないのか、 なぜそれがアーシェを救うことに繋がるのか…」


「その辺の細かい話は、面倒じゃから、おもっきし端折ったからな!」


「は…?」


「自分で調べ、自分で考え、自分で道を切り拓くのじゃ! それが冒険というものじゃろうが!キャッハハハ!」


高笑いするグレン。 呆然と立ち尽くす、バーレイグ。


(…やっぱり、ただの性格破綻者だ、このクソじじいは…!)


だが、右手には、新たな名前と共に与えられた、あまりにも巨大な「宿命」が握らされていた。


「…というわけじゃ!とりあえず南じゃ、南! 達者でな、深淵のバーレイグよ!キャッハハハ!」


高笑いを最後に、背後で、ラビアン・ローズの入り口が音もなく閉じた。 まるで、初めからそこに森などなかったかのように。


「…………」


残されたのは、不本意な偽名を授かった男と、一匹の神狼。 バーレイグは天を仰ぎ、深く、ふかーいため息をつく。


「…さて、どうしたものか…」


『バーレイグ。いつまでも空を見上げていても、道は開けんぞ』


脳内に響く、フェンリルの落ち着いた声。 我に返る。 そうだ、感傷に浸っている暇はない。 グレンの言葉は無茶苦茶だったが、ヒントは確かにもらった。


「黙示録の魔女」と「南へ」。


「…そうだな。行こう、フェンリル。 まずは情報を集める。南にあるという、大都市セレンチアへ」


バーレイグは顔を上げ、南へと続く街道を真っ直ぐに見据えた。 その隻眼には、もう迷いはない。


◇◆◇


数日後。 南方の大都市セレンチアに到着。


そこは、薄暗い森や王都の重苦しい雰囲気とは、何もかもが正反対の世界が広がる。


どこまでも突き抜けるような青い空。 さんさんと降り注ぐ陽光。 反射して輝く、白壁の家々。 カモメの鳴き声と、活気あふれる人々の喧騒。 鼻腔をくすぐる潮風と、花の甘い香り。


「…すげぇな」


眼下に広がる紺碧の港。 大小様々な船が行き交う光景は、一枚の絵画のようだ。


『心が洗われるようだな、バーレイグ』


「ああ…。たまには、こういうのも悪くない」


港に面した、オープンカフェに腰を下ろす。 テラス席からは、美しい海が一望できた。 フェンリルは人目を引かぬよう、銀色の子犬ほどに体躯を縮め、足元に丸まる。


店の名物、新鮮な魚介の料理を注文した。 運ばれてきたのは、真鯛のカルパッチョ。


銀色の皿。 透き通るような白身に、粗塩とハーブが散られる。 きらめく、黄金色のオリーブオイル。


久しぶりのまともな食事に、思わず喉が鳴る。 一口、口に運ぶ。


新鮮な魚の甘み、オイルの豊かな香り、ハーブの爽やかさ。 それらが口いっぱいに広がった。


「…………うまい」


思わず、心の底から言葉が漏れる。 隻眼を閉じ、ゆっくりとその味を噛みしめる。 逃亡してから、こんなに美味いものを口にしたのは、初めてだ。


『美味いか、バーレイグ?』


足元のフェンリルが、心配そうに見上げてくる。 その問いに、笑って頷こうとした、瞬間。


脳裏を、アーシェの顔がよぎる。 彼女は今、ダルクニクスの下で、どんな思いをしている? ちゃんと、食事は摂れているだろうか。


(俺だけが、こんな…)


罪悪感が、ナイフのように胸を抉る。 カルパッチョの味が、急に分からなくなった。


俯きかけた、その時。 足元で、フェンリルがクゥン、と悲しそうな鼻を鳴らした。 その頭が、膝にそっと擦り付けられる。


『…元気を出せ、とは言わん。 だが、お前が倒れたら、誰があの娘を助けるのだ?』


ハッとする。 そうだ。俺がここで潰れて、どうする。 進むしかない。 彼女を、そして世界を救うために。


顔を上げる。 今度は、一点の曇りもない、力強い笑みを浮かべた。 残りのカルパッチョを、味わうように、しかし力強く口に運ぶ。


「ああ、美味い。最高だ、フェンリル」


目の前に広がる紺碧の海を見つめる。 その隻眼に映るのは、絶望ではない。 これから始まる、あまりにも壮大な冒険への、静かな決意だった。

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