第7話 虚ろなる道化師と奇天烈な勝負師
毒熊は沈んだ。 だが、代償は安くない。
左目の視界は粘りつく血で赤く塗り潰され、眼窩の奥で脈打つ熱が思考を焼き焦がす。
何より致命的なのは、リボルバーのシリンダー重量(ウエイト)。 残弾、二発。
これだけで王都の遥か西、地図から抹消された禁忌の地『ラビアン・ローズ』を踏破しなければならない。
「急ぐぞ、フェンリル」
相棒の銀狼が鼻を鳴らす。 鬱蒼とした森の入り口。
足を踏み入れた瞬間、背後の風景が歪んだ。 木々が巨大な肋骨のように組み合わさり、退路を咀嚼(そしゃく)する。
襲い来る枝の鞭。 フェンリルが牙で食い千切り、その隙間を縫って駆ける。
だが、この迷宮の本質は物理的な牙ではない。
『兄さま……助けて……!』
脳髄を直接鷲掴みにするような、アーシェの悲鳴。 脊髄反射で体が動く。
だが、視線の先にあったのは、蛇のように蠢く茨の壁のみ。 意思を持った蔦が、獲物を求めて鎌首をもたげる。
「……チッ」
舌打ち一つ。 かつてベルゼが吐いた言葉が、ノイズ混じりの記憶として明滅する。
『女神の恩寵だか知らねえが、テメェの体には魔法が効かねえ』
──そうか。この森そのものが、巨大な魔法回路か。
瞼を閉じる。 視覚を遮断し、肌感覚だけを研ぎ澄ます。
襲い来る枝。 鼓膜を騙す幻聴。 無限回廊の獣道。
それら全てが放つ「魔力の奔流」が、肌をピリピリと刺激し、そして弾かれていく。
川の中に沈む石。 俺の体は異物として、魔力の流れをせき止めている。
カッ、と目を見開く。 右目に映る世界は一変していた。
極彩色の幻覚も、偽りの道も、魔力の糸で編まれた「虚像」。 そのノイズの奥底、魔力干渉を一切受け付けない「真実の道」だけが、黒い裂け目となって浮かび上がる。
「悪趣味な『なぞなぞ』だ。答え合わせといこうぜ」
フェンリルへハンドサインを送る。 俺が羅針盤となり、銀狼が探知機となる。
濃霧を切り裂く砕氷船の如く、一人と一匹は迷宮の最深部へと突き進む。
視界が開けた先、天を突く巨塔『夢幻楼』。 その門前に、絶望的な質量が鎮座していた。
全身が伝説級合金、アダマンタイトで構成された巨像(ガーディアン・ゴーレム)。 高さ10メートル。 物理攻撃一点特化。 グレンの偏執的な防衛思想の具現化。
巨像が起動。 大気を震わせ、鉄塊の拳が天を仰ぐ。
銀色の疾風となったフェンリルが撹乱するが、蒼炎すらも分厚い装甲を舐めるのみ。 有効打にならない。
シリンダーを確認。 ゴーレムの胸部中心、唯一異なる輝きを放つ魔動水晶核(クリスタルコア)。
あれを砕けば終わる。 だが、装甲が厚すぎる。 残り二発の鉛玉では、表面を削って終わりだ。
【時の静止】で止めるか? 貫通力が足りない。 【時越え】で未来を撃つか? 結果は同じだ。
ドォンッ──。
大地が悲鳴を上げ、衝撃波が体を弾き飛ばす。
物理無効。 残弾二発。 死の淵で、脳内麻薬が時間を引き伸ばす。 思考速度が臨界点を超える。
物理が通じないなら、物理法則(ルール)を書き換えればいい。 右目に閃いたのは、道化師グレンですら戦慄するであろう、狂った「解」。
「フェンリル! 5秒稼げ! 奴の目を逸らせ!」
主の殺意を察した相棒が、残像を引き連れ巨像の足元へ飛び込む。 その刹那の隙。
『ルシファーズ・ハンマー』を構える。 狙うは胸の中心、鈍く光る心臓部。
祈りなどない。 あるのは確信のみ。
トリガーを絞る。 最後から二番目の弾丸。
【時の静止(ディレイ・ロック・ペイン)】
マズルフラッシュ。 弾丸がコアを守る装甲に着弾した──その瞬間。 世界から色彩が消え失せる。
俺の鼻先数センチで固定された巨拳。 宙に縫い付けられた銀狼。 琥珀に閉じ込められた虫のように、全てが静止した世界。
アダマンタイトの装甲に突き刺さった一発目の弾丸もまた、蜘蛛の巣状の亀裂を入れたまま凍りついている。
──条件(セット)、完了。
停止した5秒という永遠の中で、ハンマーを起こす。 冷徹な指先が最後の弾丸を送り込む。
狙点は一点。 今まさに装甲へ食い込み、静止している「一発目の弾丸」の、その底(リム)。
狂気と紙一重の神技(アート)。 一発目の『静止』に、二発目の『巻き戻し』を叩き込む。
【解き戻しの弾丸(クロノス・リワインド)】
二発目が銃口を離れた直後、世界の時間が解凍される。 放たれた次弾は、静止していた初弾の真後ろに、寸分の狂いもなく噛み合った。
硬質な金属音が重なる。
【クロノス・リワインド】が、初弾の時間を巻き戻す。 装甲に食い込んだ状態のまま、「発射瞬間の最大運動エネルギー」を取り戻し、そこに次弾の推進力が上乗せされる。
ニュートンのゆりかご。 あるいは、ゼロ距離からのレールガン。
限界を超えた負荷に、最強の金属が悲鳴を上げた。 アダマンタイトが粉々に砕け散る。 こじ開けられた風穴を、融合した二つの鉛が駆け抜ける。
実質的な「三発目」。 剥き出しの魔動水晶核に、死が深々と突き刺さった。
──パリン。
戦場の轟音には似つかわしくない、儚い破砕音。 水晶核の輝きが急速に失墜していく。
巨神は振り上げた拳を天に向けたまま、沈黙。 やがて支えを失った質量が、スローモーションで背後へと崩れ落ちる。
地響きと共に舞い上がった砂埃が、圧倒的な静寂を連れてきた。
「……心臓に悪いぜ」
硝煙の匂いに噎(む)せながら、その場にへたり込む。 全弾、撃ち尽くした。
そこへ降ってくる、乾いた拍手の音。
見上げれば『夢幻楼』のバルコニー。 一人の老人が文字通り「高みの見物」を決め込み、腹を抱えて笑っている。
「傑作じゃ! 儂の番人を、そんなデタラメな数学で破る馬鹿がおるとはな!カッカッカ!」
大賢聖グレンフォール。 俺は心の底からの疲労と、殺意を込めて天を睨みつける。
「……笑えねぇぞ、クソじじい」
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