第6話 黎明の落日

神狼フェンリルは、アーシェの悲痛な願いを背負い、闇を駆ける。 ダルクニクスが築いた**【地龍の石爪壁】**を跳躍した後も、速度は緩まない。 背に伏せる意識は、失われた左目からの出血で赤く濁り、混濁の淵を彷徨(さまよ)っていた。


最後に焼き付いた視界。 それは、ダルクニクスの冷たい手に首を掴まれながらも、涙を流して頷いてみせたアーシェの笑顔。


深い森を抜け、フェンリルが足を止める。 人里離れた岩場の洞窟。奥から微かに湯気が立ち上る天然の湯地の傍らで、そっと下ろされた。 彼は岩場に群生する鮮やかな青い薬草を食いちぎり、咀嚼してペースト状にすると、抉られた左目に優しく押し当てる。


――激痛。


強制的に覚醒する意識。 だが、肉体の痛みよりも鋭く心臓を刺したのは、アーシェが今、あの裏切り者たちの手に落ちているという凍えるような現実。


湯に浸かり、血と泥を洗い流す。ライザの『零煌一刃』に裂かれた傷が、少しだけ塞がった気がした。 失われた左目からは、もう何も見えない。 代わりに、残った右目には、冷たく、底知れない殺意が宿り始めていた。


「アーシェ……。必ず助けに戻る。そして、この目と、お前への代償を奴らに払わせる」


グリップが軋むほど、ルシファーズ・ハンマーを強く握りしめる。


「俺はもう、逃亡者ではない。奴ら全員、最凶の銃神の標的(ターゲット)だ」


立ち上る殺気は湯煙と混ざり合い、復讐の誓いとなって夜明け前の空気に溶けていく。


◇◆◇

一方、ダルクニクスが召喚した石爪壁の崩落跡。 戦場は、不気味なほどの静寂と焦燥に包まれている。 重傷を負いながらも立ち尽くすロアンとベルゼ。剣の柄を白くなるほど強く握りしめるライザ。


「逃がした……だと?」


ダルクニクスの声は低い。計算外の事態への苛立ちを隠そうともしない。 その腕には、人質となったアーシェが抱えられている。


ベルゼが苦痛に顔を歪ませながら口を開く。 「悪ぃ、ダル。奴の【天の法】の応用は、俺たちの想像を遥かに超えていたぜ。特にあの【時越え】の魔弾は……」


「言い訳はよせ、ベルゼ」


冷たく遮断する。 「貴様は二度も静止させられ、ロアンは治癒役にもかかわらず重傷を負った。貴様らの傲慢が、この失態を招いたのだ」


ロアンは自らの傷に聖なる光を当てながら、静かに反論する。 「ダルクニクス。彼の逃亡は、貴方がアーシェを人質にしたことで生じた隙が原因だ。彼は最初からアーシェを盾にするつもりなどなかった。我々の判断の甘さも確かにあるが、貴方のそのやり方は……」


「黙れ、ロアン」


顔を上げるダルクニクス。 その瞳には、かつての盟友への情など微塵も残っていない。


「我々は王の仇討ちを果たさねばならない。その大義の前には、妹を人質に取るなど些細な手段。奴は必ず妹を助けに戻る。それが奴の唯一にして最大の弱点だ」


ライザが剣を鞘に収めながら、冷淡に告げる。 「奴の逃亡は私の失態だ。あの【零煌一刃】で命を断つことはできなかったが、左目は奪った。奴が再び我々の前に現れるまで、時間は稼げる」


ダルクニクスは、アーシェの首を掴む手に力を込めた。 アーシェは痛みに眉を寄せながらも、毅然とした瞳で彼を睨み返す。


「ライザの言う通りだ。奴は左目を失った。魔弾の精密な照準は利き目によって支えられている。戦力は半減以下だ」


ダルクニクスは、崩れ落ちた石壁を見据え、冷酷な作戦を宣告する。 「ベルゼ、ロアンは一旦王都に戻り治療に専念しろ。ライザ、貴様は追跡隊を編成し、奴の痕跡を徹底的に洗え。我々はここで待つのではない。餌(アーシェ)を使い、奴を狩り出すのだ」


勇者パーティーの間に流れる空気は、もはや絆ではない。冷徹な命令と疑念の連鎖。


◇◆◇

天然の湯のおかげで、体から血の臭いは薄れ、熱も引いていた。 岩にもたれる俺へ、静かに問う神狼フェンリル。


「ハーヴィー。アーシェは、奴らの手に落ちた。我々は、どうする?」


その声は人語でありながら、森の風のように力強く、深い。 俺は膝の上のルシファーズ・ハンマーを、冷たい手で愛おしむように撫でる。


「助けに行く。それ以外に道はない」


右目だけが、暗闇の中で獣のように光る。


「だが、今のまま正面から突っ込んでも餌になるだけだ。奴らには、俺の手詰まりを装い、油断させておく必要がある」


首を傾げるフェンリル。 「人質がいる状況で、お前一人の力で、あの勇者パーティーを相手にできるのか?」


「できない。だから、知恵を借りる」


深く、息を吐く。 脳裏に浮かぶのは、長年の戦友であり、かつてパーティーを去った変わり者の天才の顔。


「この事態をひっくり返せるだけの知恵者が、一人だけいる。奴を頼る」


「信頼できるのか?」


「ああ。あのダルクニクスとは大の犬猿の仲でな。奴が嫌いでパーティーを出ていったようなもんだ。だが、まあ……とんでもねえ変わり者だがな」


夜明け前の空を見上げる。 最も深く、暗い時間。


「大賢聖グレンフォール。またの名を、黄昏のグレン。まずは、彼の下へ行こう」


立ち上がり、フェンリルの毛皮をポンと叩いた。 「頼む、フェンリル。妹を救い出すためだ」


フェンリルは短く吠え、その背を低くする。 復讐の旅路、ここから始まる。


◇◆◇

森の空気が、変わる。 今まで騒がしかった鳥の声がぴたりと止み、鼓膜を圧迫するような静寂が辺りを支配する。 風に乗って漂うのは、濃密な獣の腐臭。死を連想させる甘い香り。


フェンリルの銀色の毛が逆立ち、喉の奥から低い唸り声が漏れる。 その黄金の瞳は、闇の一点を鋭く見据えていた。


――大地を震わせ、大気を引き裂くような、悍ましいまでの重低音が森の深淵から響き渡る。


それは、生物の根源的な恐怖を呼び覚ます、飢えた獣の咆哮だった。 森の奥底から、巨木をなぎ倒し、大地を揺るがしながら巨大な「漆黒」が姿を現す。


体長7メートルを超える巨熊。 その毛皮は光すら吸い込む闇色をしており、禍々しい紫黒色に変色した爪からは、地面を溶かす粘液が滴り落ちている。漆黒の毒熊。爪に致死率100%の疫病を宿す、闇の化身。


その濁った瞳が、俺の傷口から漂う残り香を捉え、爛々と輝く。


「……最悪のタイミングで、最悪の相手かよ……!」


悪態をつきながら後退る。弾切れの今、あの巨獣に対抗する術はない。 だが、俺の前に、立ちはだかる銀色の壁。


「フェンリル……!」


呼応するように、神狼フェンリルが一歩前へ。 ミシリ、と音を立てて膨張する体躯。 四肢は丸太のように太くなり、銀色の毛皮は月光を凝縮したかのような輝きを帯びる。瞬く間に、毒熊に匹敵する巨体へと変貌を遂げる。


毒熊が威嚇の咆哮を上げる。 対してフェンリルは、ただ静かに、その身に蒼い魔力を纏う。


――喉の奥から、地響きのような低い唸り声が漏れる。


それは敵を威嚇するだけではない。確実な殺意を孕んだ神狼の警告であった。 操るのは《月の法》。神聖なる月の光が、闇の眷属を浄化せんと輝く。


毒熊が、その巨体に見合わぬ速度で突進してくる。疫病の爪が、フェンリルの喉笛へ迫る。 残像が揺らぐ。 毒熊の爪は、確かな手応えもなく空を切る。 そこにいたはずの神狼は、月の光が生んだ幻影──【幻影の朧(げんえいのおぼろ)】。


――空気を肺から無理やり押し出されたような、驚愕の濁声(だくせい)が漏れる。


混乱する毒熊の背後に、実体を持ったフェンリルが音もなく顕現。 だが、牙を剥かない。 ただ静かに、天上の月へ祈るように、高く、長く咆哮する。


――夜空の月へ届かんばかりの、神聖で荘厳な遠吠えが天を突く。


その神聖な声が、号令となる。 フェンリルの足元の影から、沸騰するように蒼い炎が噴き出す。 炎は形を成し、一匹、また一匹と、フェンリルと同じ姿をした幻影の狼へと変わっていく。


一匹や二匹ではない。 数十、数百の蒼炎の群れが、奔流となって毒熊へ殺到する。 【アズール・バイト】──それは、単発の牙にあらず。 無限に湧き出る、蒼炎の軍勢そのもの。


――苦悶と困惑の混じった、濁った叫びが獣の口からこぼれ落ちる。


毒熊は暴れ回り、巨腕で狼たちを薙ぎ払う。 だが、蒼炎の狼たちは実体を持たない幻影。その爪をすり抜け、巨体へと取りつく。 そして、牙を剥く。


一匹が脚に噛み付いた瞬間、蒼白い閃光と共に弾け飛ぶ。 噛まれた箇所には、呪いのように蒼い炎が残り、ジリジリと肉を浄化していく。 一匹が消えては、また一匹が影から湧き出る。 毒熊の全身に、次々と蒼炎の狼たちが取りつき、閃光と共に消え、浄化の炎を「延焼」させていく。


――耳を聾(ろう)するほどの凄惨な絶叫が森を劈(つんざ)く。


浄化の炎に焼かれる苦痛が、獣の喉を金切り声となって突き破った。 無限の波状攻撃からは逃れられない。 その巨体は瞬く間に無数の蒼い炎に包まれ、まるで星空を纏ったかのような姿へと変わっていく。


力任せに暴れる毒熊と、幻影で惑わせ、無限の軍勢で蝕むフェンリル。 それは戦いではない。 一個師団にも匹敵する軍勢が、ただ一体の巨獣を蹂躙する、一方的な「狩り」。


十数秒後。毒熊の動きが鈍り、全身が完全に蒼い炎に覆われる。 フェンリルはその隙を見逃さない。 幻影を囮にし、本体は毒熊の死角である真上へと跳躍する。 月光を背に受けたその姿は、まさしく神話の狼。


――短く、だが決定的な死の重みを伴った、神狼による処刑の宣告が放たれる。


最後の号令。 毒熊を焼いていた全ての蒼炎、そして周囲の全ての幻影狼が、一斉にその顎へと収束していく。 数百の幻影が一体となり、毒熊の巨体すら飲み込むほどの、巨大な蒼炎の顎(あぎと)を形成した。


毒熊が、己の終焉を見上げる。 神狼の喉から、最大出力の【アズール・バイト】が放たれ、毒熊の頭部を、その巨体ごと喰らい尽くす。


音はない。 ただ、蒼白い閃光だけが森を包み、全てを浄化する。 光が収束した時、そこに毒熊の姿はなく、ただキラキラと舞い落ちる蒼い灰だけが残っていた。


「はぁ……はぁ……」


その場にへたり込む。 我が相棒の圧倒的な神威。そして、弾切れの自分の無力さ。 安堵と焦燥。相反する感情が心を支配する。

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