3.

​「……君は一体何を……」

 怜央は氷の礫を消し、彼はゆっくりと志乃の元へ歩み寄る。

 路地裏に立ち込めていた冷気が、怜央の感情の鎮まりとともにゆっくりと夜の闇に溶けていく。

 志乃は怜央の腕の中で激しい耳鳴りに耐えていた。

 犯人の男が発していた絶望の咆哮は志乃の聴音によって彼女自身の心にも深い傷跡を残していた。

​「……志乃嬢、しっかりしろ」

​ 怜央の声がすぐ耳元で聞こえる。その声には先ほどまでの冷徹な警察官の響きはなく、ただ一人の女性を案じる、ひどく脆くて熱い響きが含まれていた。

 志乃は震える手で怜央の胸元を掴んだ。

(九条様……ごめんなさい、勝手なことをして。でも、あの方は……あの方はただ助けて欲しかっただけなのです)

 声にはならない。

 けれど志乃の瞳から零れ落ちる涙が彼女の言いたいことをすべて伝えていた。

​「わかっている。……あとのことは署の者に任せよう」

​ 怜央はそう言うと志乃の耳を塞ぐようにその大きな掌で彼女の頭を優しく包み込んだ。

 不思議なことに彼の手に触れられている間だけは街の喧騒も他人の醜い心の声も遠い海の底の出来事のように静まっていく。

 志乃は彼の体温にすべてを委ねるようにそっと目を閉じた。

​ 事件の事後処理を部下に任せ、怜央は志乃を人力車に乗せて月代邸へと送り届けた。

 帝都の夜は文明開化の灯りが美しく揺れているが、月代邸へと近づくにつれ、空気は再び冷たく重苦しいものへと変わっていく。

​ 屋敷の門前に着いた時、志乃は隣に座る怜央の横顔を盗み見た。

 彼は複雑な表情で月代邸の重厚な門構えを見つめている。

(この人は私がこの檻の中でどれほど苦しんでいるか、もう気づいている。……だからこそ、こんなに悲しい目をなさるのね)

​ 人力車を降りると怜央は志乃の手を離さなかった。

 玄関先には志乃の父親が不機嫌そうな顔をして待ち構えていた。

​「これは九条警部補。娘を連れて一体どこまで出掛けていたのか。夜分にこのような姿で帰ってくるとは月代家の名に傷がつく」

​ 父親の声は表面上は丁寧だが志乃の耳にはその裏にある醜い本音が泥水のように流れ込んできた。

(せっかく九条家とのパイプを作ったというのに志乃の分際で九条警部補を困らせおって。もしこの婚約が破談にでもなればあの役立たずの娘をどう処分してくれようか)

​ 志乃は思わず身をすくめた。

 喉の奥が熱い鉄を飲まされたように熱くなり、呼吸が浅くなる。

 その時、怜央が志乃の前に一歩踏み出し、彼女を背後に庇った。

​「月代様、誤解なきよう。令嬢は私の捜査に協力してくださったのです。その過程で心無い輩に襲われ、ひどく動揺しておられる。……今夜はこれ以上の追求は控えていただきたい」

​ 怜央の声には有無を言わせぬ圧迫感があった。

 氷の異能を操る彼が発するその空気は父親の傲慢な態度を一瞬で凍りつかせる。

​「な、捜査……?あのような声も出ぬ娘が一体何の役に立つというのだ」

​「彼女にしかできないことです。……それと貴殿は令嬢がこれほどまでに疲弊していることに、本当にお気づきでないのか?」

​ 怜央の青い瞳が鋭く父親を射抜く。

 父親は一瞬たじろいだが、すぐに鼻で笑った。

(混血の若造が偉そうに説教を。志乃は月代家の異能を継承するための道具だ。少々疲れている程度でガタガタぬかすな)

​ 志乃はその心の声を聴き、絶望的に目の前が暗くなった。

(ああ、お父様。……やっぱり、あなたは私のことなんて……)

​「志乃」

​ 怜央が振り返り、志乃の名前を呼んだ。

 初めて名前を呼ばれた。

 彼は父親の目の前であるにもかかわらず、志乃の肩にそっと手を置いた。

​「(……俺が、必ずここから連れ出す。今は休むことだけを考えろ。……いいな?)」

​ 彼の心の声は深い海のように穏やかだけれど決して揺るがない決意に満ちていた。

 志乃は涙を堪えて深く頷いた。

​ 自室に戻った志乃を待っていたのは侍女の清だった。

「お嬢様!ああ、お顔色が真っ白ではございませんか。一体何があったのです?」

​ 清は志乃の濡れたショールを脱がせ、温かいタオルで彼女の手を拭った。

 清の心の声はいつだって志乃への純粋な愛に満ちている。

(お嬢様、あんなに震えて……。旦那様はどうしてお嬢様の心をこれほどまでに痛めつけるの。私がもっとしっかりお守りしていれば……)

​ 志乃は清の手に自分の手を重ね、小さく首を横に振った。

「(大丈夫よ、清。……九条様が守ってくださったから)」

 手帳にそう書き込むと清は少しだけ驚いたような顔をし、それから安堵したように微笑んだ。

​「九条様……。あの方は他の方々とは違うようですね。お嬢様を見る目がとても温かくて」

​ 志乃は左手の薬指に輝くサファイアの指輪を見つめた。

 怜央から贈られたこの石は鏡のように志乃の心を映し出しているようだった。

​(……九条様。あなたはどうしてあんなに優しくしてくださるの?)

(私は声も出せない、ただ異能に蝕まれるだけの壊れかけの人形なのに)

​ 志乃は窓の外を見上げた。

 雨は完全に上がり、夜空には美しい星が瞬いている。

 夜風がカーテンを優しく揺らしていた。

 けれど志乃の身体は限界に近づいていた。

 酷使された聴音の代償は着実に彼女の肉体を削っている。

(……え?音が、遠い……?)

 ふと右耳の奥で鋭い金属音が響いた。

​​ 一瞬、清が何かを話している声が水の中に潜った時のように籠って聞こえた。

 代償の段階が進んでいる。

 発声障害の次は恐らく聴覚の喪失。

 志乃はその恐怖に身を震わせた。

 もし耳まで聞こえなくなってしまったら、怜央のあの優しい声も彼の心の震えも聴き取ることができなくなってしまう。

​(嫌……それだけは、嫌……!)

​ 志乃は自分の耳を強く押さえた。

 その時、屋敷の廊下から再び不穏な心の声が響いてきた。

​(九条怜央……。あの男、警察官という職を利用して、我々が隠している特級異能の真実に近づこうとしているのではないか? ……もしそうなら泳がせておくのは危険だ。志乃を使って九条家の弱みを握らねばならん)

​ それは父親の悪意に満ちた言葉だった。

 誘拐事件の背後には単なる金銭目的ではない、もっと大きな“何か”が潜んでいる。

 そして、その渦中に志乃と怜央は引きずり込まれようとしていた。

​ 数日後。

 志乃は怜央からの誘いで九条家の別邸へと招かれた。

「……ようこそ、私の隠れ家へ」

 そこは純和風の本邸とは異なり、怜央が仕事の合間に過ごすための和洋折衷の平屋だった。

 室内には重厚な革張りのソファや蓄音機、そして壁一面に並べられた洋書が置かれている。

​​ 怜央は軍服ではない、ラフな開襟シャツ姿で志乃を迎えた。

 少し乱れた前髪から覗く青い瞳がいつもより柔らかく見える。

「今日は君に聴いてもらいたいものがあるんだ」

 怜央は志乃をソファへと優しくエスコートし、ごく自然な動作でその隣、肩が触れそうなほど近い場所に腰を下ろした。

 蓄音機からエルガーの『愛の挨拶』が静かな旋律で流れ出す。

 それは優雅でいてどこか切ないバイオリンの音色だった。

「エルガーの『愛の挨拶』という曲でね、欧州にいた頃、母がよく弾いてくれた曲なんだ」


 至近距離から漂う怜央の石鹸と煙草の香りに志乃は心臓が口から飛び出しそうなほど高鳴った。

​(近い……。九条様、近すぎます……!)

​ 志乃が顔を真っ赤にして思わず視線を泳がせ、横にそらすと怜央は不思議そうに首を傾げ、覗き込むように顔を近づけてきた。

「志乃嬢? 顔が赤い。……具合でも悪いのか? 気分が優れないなら、すぐに窓を――」

「……っ!」

 視線を合わせようと顔を寄せてくる怜央に志乃はさらに体を硬くして縮こまる。

 怜央は彼女がなぜこれほどまでに動揺しているのか分からず、ただ純粋な心配の念を心の声として漏らしていた。

(顔が熱いようだ。もしや先日の事件の疲れが出たのか。……なぜ目を合わせてくれないんだ?)

 その無自覚な攻勢に志乃は手帳を取り出す余裕すらなく、ただ指先を握りしめて耐えるしかなかった。

 バイオリンの旋律が最高潮に達し、二人の唇が重なろうとした、その時。

​ 突然、窓の外で激しい音が響き、室内の空気が一変した。

​「九条警部補!緊急事態です!」

​ 部下の叫び声とともに平穏な時間は無残に切り裂かれた。

 怜央は志乃を庇いながら瞬時に立ち上がり、鋭い視線を窓の外へと向けた。

​「何事だ!」

​「帝都中央銀行が異能者の一団に襲撃されました!……犯人たちはお嬢様を志乃様を連れてこいと要求しています!」

​ 志乃は絶句した。

 誘拐犯のターゲットは最初から自分だったのか。

 そしてその背後にあるのは父親が隠そうとしている月代家の秘密なのか。

​ 怜央は志乃の手を強く握りしめた。

 その手は二度と離さないという強い意志で固く結ばれていた。

​「……志乃嬢。俺のそばを離れるな。地獄の果てまで行こうと俺がお前を守り抜く」

​ 夜を揺らす、新たな動乱の幕開け。

 志乃の聴音が遠くから近づいてくる巨大な悪意の足音を捉えていた。

​(……逃げられない。でも、この人の手があるなら……私はどこまでも行ける)

​ サファイアの指輪が暗闇の中で静かだけれど強く青い光を放っていた。

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大正純愛録〜声無し令嬢と青き異能者〜 アカツキ千夏 @akatsukichinatsu

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