2.
降り続いた夕立は帝都の石畳を黒く光らせ、夜の闇をより一層深く塗りつぶしていた。
月代邸の客間。
ガス灯の仄かな灯りがマホガニーの机を濡れたように照らしている。
志乃は目の前に座る九条怜央という男が発する“音”に呼吸を忘れるほど圧倒されていた。
(……この人の心の中は驚くほどに静か。)
志乃の異能“聴音”は本人の意志に関わらず、周囲の人間の感情を泥流のように流し込んでくる。
欲、嫉妬、計算、侮蔑。
月代邸に満ちるそれらは常に志乃の脳を針で刺すような激痛とともに蝕んできた。
けれど怜央から伝わってくるのは透き通った冬の湖底のようなひんやりとした静寂だった。
「志乃殿。先ほど貴女は“逃げたい”と書かれましたね」
怜央の低い声が静まり返った室内で心地よく響く。
彼は志乃が差し出した手帳の文字をその長い指先でそっとなぞった。
「その言葉、私の職権で聞き入れましょう。ただし、ただ逃げるのではない。貴女には私の“協力者”になってもらいたい」
「…………」
志乃は小さく肩を震わせた。
声は出ない。
けれど彼女の瞳は熱烈な肯定を求めて揺れていた。
「現在、帝都で起きている華族子女の誘拐事件。犯人は“異能”を封じる術か、あるいはそれを上回る力を持っている可能性が高い。私は警察官として奴らを追っているが社交界の厚い壁が捜査を阻んでいる」
怜央はそこで言葉を切り、志乃の顔をじっと見つめた。
欧州の血を引くという彼の虹彩は深い海の底のような青色をしている。
「月代家はこの婚約を“利益”のために結んだ。ならばそれを利用させてもらう。貴女を私のそばに置く口実として。……貴女のその異能が何であるかはあえて聞きません。ですが貴女が何かを“耐えている”ことだけはわかる」
(ああ、この人は……)
志乃の胸の奥で何かが音を立てて崩れ落ちた。
父親は志乃を“”便利な道具”としか見ていなかった。
使用人たちは志乃を“可哀想な人形”としか見ていなかった。
けれど、この怜央という男だけは志乃を“意志を持つ一人の人間”としてその苦痛を見抜こうとしている。
(九条様、あなたは……どうしてそんなに優しいのですか?)
志乃は再び手帳にペンを走らせた。
指先が震え、インクが僅かに滲む。
「(私は何をすればよろしいのでしょうか。九条様のためになるのなら、この命、どうなっても構いません)」
「……命を粗末にするようなことは言わないでいただきたい」
怜央が少しだけ眉をひそめた。
その瞬間、彼の心から“鋭い怒り”とそれを包み込むような“深い哀しみ”の波動が伝わってきた。
(怒っている……?いいえ、これは案じてくださっているの……?)
「貴女の役割は私の婚約者として、事件の鍵を握る華族たちの夜会に同行することだ。貴女がそこにいてくれるだけで彼らは油断し、本音を漏らす。私はそれを見逃さない」
怜央は立ち上がり、志乃のすぐそばまで歩み寄った。
上質な外套から雨の匂いと微かな煙草、そして彼自身の体温が混ざり合った香りが漂ってくる。
「週明け、銀座の赤煉瓦街にあるカフェーで待ち合わせましょう。まずは形から……婚約者らしい装いを揃えなければ」
彼はそう言って志乃の細い手を壊れ物を扱うかのような手つきで包み込んだ。
冷たいはずの雨上がりの空気の中で彼の掌だけが痛いほどの熱を持って志乃の肌に伝わる。
(熱い……。私の声にならない叫びもこの熱が溶かしてしまいそう……)
志乃は生まれて初めて、他人に触れられることが心地よいと感じていた。
週明け。
帝都の銀座は文明開化の象徴である赤煉瓦の建物が並び、モダンな衣装に身を包んだ人々で溢れかえっていた。
人力車の車輪が軽快な音を立て路面電車がガタゴトと通り過ぎていく。
志乃は清に手伝ってもらって選んだ、淡い藤色の振袖にレースのショールを羽織っていた。
慣れない外出と人の多さに彼女の“聴音”は朝から酷使され、頭痛がひどい。
(うるさい……怖い……。みんな、何を考えているの……?)
「あら、あの方、月代家のお嬢様じゃない?例の“声無し令嬢”よ」
「お可哀想に。九条家の混血の御曹司と婚約だなんて、月代様も冷酷なことをなさるわ」
周囲から漏れ聞こえる、好奇の視線と棘のある心の声。
志乃は耳を塞ぎたい衝動を抑え、俯き加減に歩いた。
喉がギュッと締め付けられる。
発声障害の代償は彼女が不安を感じるほどに強くなり、今や呼吸をすることさえ苦しい。
その時だった。
「志乃嬢」
凛とした声が喧騒を切り裂いて届いた。
顔を上げるとそこには警察の制服を脱ぎ、モダンな三つ揃えのスーツを着こなした怜央が立っていた。
彼は周囲の視線など意に介さず、大股で志乃に歩み寄る。
「……顔色が悪い。やはり無理をさせすぎたか」
(九条、様……)
怜央は迷うことなく志乃の肩を引き寄せ、自分の方へと抱き寄せた。
彼の胸に顔が埋まる。
驚くほど広い胸板とドクンドクンと刻まれる力強い心音。
不思議なことに彼に触れられた瞬間、周囲の雑音がすうっと遠のいていくのがわかった。
「(……怖いか。すまない、これほどまでとは思わなかった)」
怜央の心の声が直接志乃の脳内に響く。
それは言葉よりもずっと深く、優しく、志乃の心を撫で上げた。
「俺の腕に掴まっていなさい。それですこしでもあなたが楽になるのなら」
怜央の一人称が“私”から“俺”に変わったことに志乃の胸が高鳴る。
彼は志乃をエスコートし、一軒の高級宝飾店へと導いた。
「婚約の証を。……君の瞳に似合うものを探していたんだ」
店内に並ぶ輝かしい宝石の数々。
店員が恭しく頭を下げる中、怜央は一つの指輪を手に取った。
それは深い青色のサファイアを繊細なプラチナの細工で囲ったものだった。
「サファイアの石言葉は“慈愛”と“誠実”。そして持ち主を悪意から守る盾となる。……君に」
怜央は志乃の左手を取り、薬指にその指輪を滑らせた。
ひんやりとした感触とともにサファイアの輝きが志乃の白い肌に映える。
(綺麗……。でも、どうして私にこんな……)
志乃は震える指でカバンから手帳を取り出そうとした。
けれど怜央はそれを手で制した。
「今は書かなくていい。君の目はすべてを語っているから」
怜央が志乃の頬にそっと手を添える。
その親指が彼女の唇をなぞった。
熱い。熱くてとろけてしまいそうだ。
彼の青い瞳が志乃の瞳の奥をじっと見つめている。
そこには怜央自身が抱える“孤独”の影が志乃と同じように潜んでいた。
「(俺もこの街が嫌いだ。混血だと蔑まれ、家では異物として扱われる。……だが君といると、この喧騒さえ愛おしく思えるのが不思議だ)」
彼の心の声に含まれる切実な告白。
志乃は思わず彼のシャツの裾をギュッと掴んだ。
声が出せるなら今すぐにでも叫びたかった。
自分も同じです。
あなたがいるだけでこの世界はこんなに輝いて見えるのです、と。
しかし、その幸せな時間は突如として破られた。
「――助けて!誰か、誰か助けてちょうだい!」
店の外から悲鳴が上がった。
怜央の表情が一瞬で警察官のそれに変わる。
「志乃嬢、ここで待っていてくれ。店の人、彼女をお願いする!」
「……っ、」
志乃の伸ばした手は空を切った。
怜央は風のように店を飛び出し、悲鳴の上がる方へと駆け出していく。
(九条様……! 行かないで、危ないわ……!)
志乃は店員の制止を振り切り、彼を追って外へ出た。
表通りから一本入った路地裏。
そこには黒い頭巾で顔を隠した男たちに囲まれた一人の少女と腰を抜かした母親の姿があった。
「へっ、九条家の警部補がお出ましか。噂の“青き異能者”に会えるとは光栄だねえ」
男の一人が下卑た笑い声を上げる。
その男の手には禍々しい赤い光を放つ札が握られていた。
「誘拐犯の一味か。子供を離せ」
怜央の声は凍りつくような冷徹さを帯びていた。
彼の周囲の空気が急激に冷えていく。
足元の水溜まりがパキパキと音を立てて凍り始め、霧のような冷気が立ち込める。
「離せと言って、離すようなタマじゃねえんだよ。……喰らえ異能殺しの呪符だ!」
男が札を投げつけた瞬間、赤い閃光が怜央を襲った。
志乃は路地の陰からそれを見て、息を呑んだ。
志乃の耳には犯人の男の心の声が歪んだ絶叫となって届いていた。
(死ね!九条の化け物め!お前さえいなければ俺たちの計画は完璧だったんだ!)
「――氷華(ひょうか)」
怜央が短く呟くと同時に彼の目の前に巨大な氷の盾が出現した。
赤い閃光は氷の盾に当たり、激しい火花を散らして霧散する。
「なっ……呪符が効かないだと!?この威力、噂以上じゃねえか!」
「残念だったな。私の異能はそんな小細工で封じられるほど安っぽくない」
怜央の手のひらに鋭い氷の礫が生成される。
彼はそれを一気に放とうとした、その時。
(……待って。九条様、待って!)
志乃は激しい頭痛に耐えながらさらなる“音”を聴き取っていた。
犯人の男。
その憎悪の奥底にひどく虚無的で悲痛な叫びが混ざっているのを。
(……お母ちゃん。俺、お母ちゃんの薬代が欲しかっただけなんだ。どうして、どうして俺たちだけがこんなに苦しまなきゃいけないんだ……!)
それは華やかな時代の陰に隠された極貧層の絶望だった。
行き場を失った少年が悪い大人に利用され、異能を武器に犯罪に手を染めている。
(この子は……この子は本当は誰も傷つけたくないんだわ……!)
志乃は自分の恐怖を忘れ、路地裏へと飛び出した。
「志乃嬢!?来るなと言っただろう!」
怜央の驚愕の声。
志乃は凍りついた地面を走り、怜央と犯人の男の間に割って入った。
彼女は震える両手を広げ、犯人の男を真っ直ぐに見つめた。
(やめて。もう、やめて……)
声は出ない。
けれど志乃の瞳からは大粒の涙が溢れ落ちていた。
彼女は男の悲しみ、苦しみ、絶望をすべて自分の心で受け止めていた。
「……なんだよ、この女。どけよ!殺されたいのか!」
男は動揺し、再び札を構える。
志乃は首を振った。
そして、ゆっくりと歩み寄り、泥に汚れた男の手に自分の白い手を重ねた。
「(……貴方の心の声、聞こえたわ。苦しかったわね。寂しかったわね。でも、もう大丈夫よ)」
志乃の異能“聴音”が逆流するように彼女自身の穏やかな情動を男へと伝えた。
それはかつて志乃が清に抱きしめられた時に感じたような、無償の愛の波動だった。
「……あ……あああ……っ」
男の手から札が滑り落ちた。
彼は崩れ落ちるように膝をつき、子供のように泣きじゃくり始めた。
「ごめん、なさい……ごめんなさい……!」
静寂が路地裏を包み込む。
雨はいつの間にか止み、雲の間から淡い日光が差し込んでいた。
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