第五章:屋根裏の真実
【母・美和子の手記(震える筆跡で書かれたメモの束)】
7月29日
翔太が入院した。 あの子は、私の前で「先生」みたいな口調で喋ったあと、気絶したまま目を覚まさない。 病院のベッドで眠るあの子の顔は、とても穏やかだった。 でも、その寝顔を見ていると、背筋が凍るような感覚に襲われる。 あの顔は、翔太の顔じゃない。 昔、アルバムで見た、若い頃の母さんの顔にそっくりなんだ。
家の中は静かだ。夫はまだ帰ってこない。愛理もいない。 でも、気配だけが濃くなっている。 家全体が、一つの巨大な「胃袋」になって、消化液を分泌しているみたいだ。 私は、消化されるのを待っている餌だ。
耐えられない。 全部燃やしてやる。 元凶は、あのノートだ。愛理が大事に抱えていた、母さんの『儀典』。 あれさえ無くなれば、この呪いも解けるはずだ。
庭に出た。ドラム缶に新聞紙を突っ込んで、火をつけた。 ノートを放り込む。 紙が燃える匂いと一緒に、奇妙な悪臭が立ち上った。髪の毛が焦げるような、腐った肉のような臭い。 炎がノートを舐め、表紙がめくれ上がった瞬間。
「ああっ!」
激痛が走った。 私の右腕が、焼けるように熱い。 慌てて袖をまくると、何もない。火傷なんてしていない。 でも、痛い。皮膚の下の肉が、直接炙られているような痛み。 ノートが燃え尽きるにつれて、痛みは私の全身に広がった。 喉が焼ける。子宮が疼く。へその緒があった場所が、キリキリと締め付けられる。
理解してしまった。 燃やせない。 私と、愛理と、母さんは、見えない緒で繋がっている。 私が母さんを拒絶すればするほど、その緒は太く、強くなって、私たちを縛り付ける。 これは思想じゃない。血だ。呪われた血の系譜だ。
7月30日 深夜
屋根裏から、音がする。 カサカサ、ズルズル。 今までネズミだと思っていた。 でも違う。あれは、もっと重いものだ。 誰かが、這っている。あるいは、誰かが誰かを引きずっている。
行かなければならない気がする。 あそこに、答えがある。 懐中電灯を持って、天井裏への階段を下ろした。 カビと、埃と、あの「百合の匂い」が混ざった空気が降りてくる。
梯子を登る。一段、また一段。 暗闇の向こうに、ぼんやりと空間が広がっている。 そこは、ただの物置じゃなかった。 壁一面に、赤い塗料で──いいえ、あれは乾いた血だ──びっしりと文字が書かれている。 フェミニズムの用語。呪術の記号。そして、家系図。 家系図の頂点には「大江サト」。その下に私。愛理。そして翔太。 翔太の名前だけが、何重にも丸で囲まれ、そこから矢印が四方八方に伸びている。
部屋の中央に、何かがある。 目を凝らす。 マネキン? いや、違う。 それは、「男根」を模した巨大な木製の偶像だった。 高さは2メートル近くあるだろうか。荒削りな木肌が、禍々しく黒光りしている。 そして、その先端に、何かが乗っている。
悲鳴すら出なかった。 息が止まった。
母さんだ。 母さんの頭だ。 腐敗が進み、皮膚が垂れ下がり、眼球が溶け落ちた、母さんの生首が。 男根の先端に、串刺しにされている。
その下には、首のない胴体が、ひざまずくような姿勢で固定されていた。 まるで、その男根を崇拝しているかのように。 胴体は、着ている服からして母さんのものだ。 死後、誰かが墓を暴き、遺体を盗み出し、ここで切断し、このオブジェを作り上げたのだ。
吐き気が込み上げる。 冒涜だ。死者への、いや、人間への冒涜だ。 女性解放を謳っていた母さんが、死後にこんな辱めを受けるなんて。 誰がこんなことを? あの信者たち? カルトの狂気?
違う。 私は、壁に書かれた文字を見て、戦慄した。 偶像の真後ろの壁に、ひときわ大きく、几帳面な字でこう書かれていたのだ。
「女の肉体は弱すぎる」
見覚えのある字。 私が子供の頃、添削された作文用紙で何度も見た、母さんの字だ。
「生理、妊娠、更年期。女の肉体はノイズが多すぎる。純粋な思考の器としては不完全だ」 「言葉を世界に刻むには、男の喉(ノド)と、男の権威(チカラ)が必要なのだ」 「翔太こそが、私たちの新しい王(クイーン)である」
足元の床が崩れ落ちるような感覚。 騙されていた。 母さんは、フェミニストなんかじゃなかった。 女性を愛していたわけでも、女性のために戦っていたわけでもない。 母さんは、「女であること」を誰よりも憎んでいたんだ。
女として生まれた自分の不自由さ。社会から軽んじられる肉体。 それを呪い、憎み、最終的に出した答えがこれだ。 「男を乗っ取る」。 男社会を解体するのではなく、男という「強者の肉体」を奪い取り、その皮を被って、中身を「自分(女の情念)」に入れ替える。 そうすることで、男の権威と女の思考を併せ持った、完全な支配者になろうとしたんだ。
愛理は? あの子は、そのための「生贄」だったの? 母さんの思考(悪魔)を一時的に宿し、培養し、そして翔太という「本命の器」に移すための、使い捨ての子宮。 あの子が事故で首を失ったのも、偶然じゃない。 「思考する頭部」は、新しい王(翔太)にひとつあればいい。 だから、古い器(愛理)の首は切り落とされた。
「ひっ、ひっ……」 喉から空気が漏れる。 逃げなきゃ。翔太を連れて。 あの子が危ない。あの子の中身が、全部母さんに食いつくされてしまう。
後ろで音がした。 振り返ると、屋根裏の入り口に、誰かが立っている。 暗がりの中で、白く浮かび上がる裸の老婆たち。 ジョーンさんだ。そして、葬儀に来ていた人たち。 彼女たちは全員、穏やかに微笑んでいた。 その手には、紫のスカーフで作られたロープが握られている。
「美和子さん、見たのね」
ジョーンさんが優しく言った。
「素晴らしいでしょう? サト先生の計画は完璧よ」 「あなたも、その一部になれるの。光栄に思いなさい」
彼女たちが、じりじりと近づいてくる。 逃げ場はない。 この家自体が、巨大な子宮だったんだ。 翔太という「悪魔」を産み落とすための。 そして私は、そのための養分。
ごめんなさい、翔太。 お母さん、もう守ってあげられないかもしれない。
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