第四章:空洞の家
【母・美和子の日記(黒い表紙のノート)より】
7月16日
あの子が死んだ。 首がない。 警察官がそう言った時、私は言葉の意味が理解できなかった。 翔太が運転する車の助手席で、事故に遭った。 翔太は無傷だった。昨夜、何食わぬ顔で帰ってきて、そのまま自分の部屋で寝ていた。 私は今朝、車庫で車を見た。 助手席の窓ガラスが割れていた。座席が赤黒く染まっていた。そこに、愛理の身体だけがあった。
私の叫び声で、翔太が起きてきた。 彼はパジャマ姿で、車の中を覗き込み、そして言った。 「あれ、姉ちゃん、まだ喋ってるの?」
私はその場で吐いた。 この子は壊れてしまったのだろうか。それとも、私が狂っているのだろうか。 葬儀屋との打ち合わせ。警察の聴取。親戚への連絡。 淡々と事務処理をこなす自分の手が、他人のものみたいだ。 箱庭療法のセッションで、クライアントに「悲しみを外に出しましょう」と言い続けてきた私が、一滴も涙が出ない。 ただ、家の空気が重い。 屋根裏から、またあの音がする。何かを引きずるような、重い音。
7月20日
愛理の葬儀が終わった。 密葬にするつもりだったのに、またあの人たちが来た。 紫のスカーフを巻いた、母さんの信者たち。 彼女たちは焼香の列に並びながら、祭壇の遺影(私が選んだ、成人式の笑顔の写真)を見て、ヒソヒソと話していた。
「やっと解放されたのね」 「肉体という牢獄から出られたのよ」 「次は魂の定着ね」
不謹慎だとか、そういうレベルの話じゃない。 彼女たちは、愛理の死を「祝って」いるように見えた。 寒気がした。 翔太はずっと下を向いていた。震えていた。 あの子の背中に、誰かの手が触れた気がして見ると、誰もいない。 でも、翔太の白いワイシャツの背中に、うっすらと手形のようなシミが浮き出ていた。脂汗だろうか。それにしては、形がはっきりしすぎている。
7月25日
スーパーの駐車場で、ジョーンさんに声をかけられた。 母さんの古くからの友人で、葬儀でも翔太をじろじろ見ていた人だ。 無視して車に乗ろうとした私を、彼女は強い力で引き止めた。
「美和子さん、愛理ちゃんに会いたくない?」
心臓が止まるかと思った。 「何言ってるんですか」と振り払おうとすると、彼女は私の目を真っ直ぐに見て言った。 「あの子、まだ『語り』足りないのよ。あんなに雄弁だった子が、黙ったまま逝くわけがないでしょう? 彼女の言葉を聞いてあげなさい。それが供養よ」
彼女は一枚の紙切れを私のポケットにねじ込んだ。 そこには、奇妙な手順が書かれていた。 ロウソクの配置。鏡の角度。そして、唱えるべき「呼びかけの言葉」。 それはお経でも祝詞でもなく、母さんがよく演説で使っていたフレーズの羅列だった。
『沈黙を破れ。不可視化された痛みを叫べ。個人の肉体を超えて、連帯せよ』
馬鹿げている。カルトの手口だ。 私はその紙をゴミ箱に捨てた。 捨てたはずだった。 夜、家に帰ってエプロンのポケットに手を入れたら、紙が入っていた。 捨てても捨てても戻ってくる。 愛理が、何か言いたがっている気がする。 あの事故の夜、翔太は何を見たのか。愛理は何を思ったのか。 知りたい。知って、楽になりたい。
7月26日
やってしまった。 夫が出張でいない夜。翔太が部屋に引きこもっている深夜2時。 リビングのテーブルに、愛理が好きだったアロマキャンドルを立てた。 鏡を置いた。 そして、あの言葉を唱えた。
「沈黙を破れ……不可視化された痛みを叫べ……」
最初は何も起きなかった。 馬鹿なことをしたと、火を消そうとした瞬間。 風もないのに、炎が真横に伸びた。 そして、ドン! とテーブルが跳ね上がった。
『お母さん』
聞こえた。愛理の声だ。 でも、どこか違う。もっと低くて、ざらついた、老婆のような響きが混ざっている。 「愛理? いるの?」 私は虚空に問いかけた。
『謝れ』
「え?」
『謝れ! 謝れ! 私の痛みを可視化しろ! お前が見て見ぬ振りをしてきた、この家の欺瞞を直視しろ!』
叫び声とともに、リビングのガラス戸がガタガタと激しく振動した。 本棚から本が次々と飛び出してくる。 それはポルターガイストなんて生易しいものじゃなかった。 飛び出した本は、フェミニズムの理論書や、社会学の専門書ばかり。それらが弾丸のように私に向かって飛んでくる。 「痛い! やめて!」 私が悲鳴を上げると、壁に掛けてあった家族写真が落ちて割れた。 割れたガラス片が、床の上で文字を描くように動く。
『搾取』『抑圧』『共犯者』
愛理じゃない。 これは愛理の姿を借りた、もっと巨大で、怒りに満ちた「概念」だ。 私は這うようにしてリビングから逃げ出し、寝室に鍵をかけた。 一晩中、ドアの向こうから、何か硬いもので床を叩く音と、ブツブツと論理を説く声が聞こえ続けた。 「構造的暴力とは……」「家事労働の不払いについて……」 その声は、愛理の声と、母さんの声が、完全に同期していた。
【県立◯◯高校 生徒指導報告書(写し)】
発生日時:202X年7月28日 10時15分頃(2時限目)場所:3年B組教室対象生徒:大江 翔太(おおえ しょうた)報告者:英語科教諭・佐藤
概要: 授業中、当該生徒が突如として奇声を上げ、錯乱状態に陥った事案について報告する。
授業開始から15分ほど経過した頃、最後列に座っていた大江生徒が、机に突っ伏したまま小刻みに震え始めた。 周囲の生徒が「うめき声が聞こえる」と指摘したため、私が近づいて声をかけたところ、大江生徒は激しく頭を振り上げ、立ち上がった。 その際、彼の両目は焦点が合っておらず、白目を剥いているような状態であった。
彼はふらつく足取りで黒板の前まで進み出ると、チョークを両手に持ち(右手と左手で同時に)、黒板に円形の図形を描き始めた。 円の中に、男女の顔が重なり合ったような、複雑で幾何学的な紋章。 美術教師に確認したところ、西洋魔術で使用される図象に酷似しているとのことだが、大江生徒にそのような趣味嗜好は見られない。
彼は図形を描きながら、かすれた声で、しかし教室中に響き渡るような声量で、以下のような言葉を繰り返し叫んだ。
「僕は男だ! 僕は汚れた性だ! 僕は加害者だ!」 「僕の身体を使ってください! この喉を使ってください!」 「ああ、入ってくる! 言葉が入ってくる! 重い! 重い!」
その後、彼は自らの顔面を黒板に打ち付け始めた。 一度ではなく、何度も、額から血が流れるまで打ち付けた。 「謝罪します、謝罪します、生まれてきてごめんなさい」と泣き叫びながらの自傷行為であり、制止に入った男子生徒2名をものすごい怪力で突き飛ばした。
最終的に、駆けつけた体育教師3名によって取り押さえられ、救急車で搬送された。 搬送される際、ストレッチャーに固定された大江生徒は、急に穏やかな表情になり、付き添いの私に向かって、流暢な、しかし明らかに彼のものではない「年配の女性のような口調」でこう言った。
「先生、教育カリキュラムの見直しは進んでいますか? ジェンダー・バイアスに無自覚な教育は、再生産の罪ですよ」
その直後、彼は意識を失った。 現在、病院にて鎮静剤を投与され入院中である。 保護者(母親)に連絡を取ったが、「やっぱり……始まったのね」と呟くだけで、会話が成立しなかった。 家庭内での虐待、あるいはカルト宗教の影響が疑われるため、児童相談所および警察への連絡を検討中。
備考: 教室の黒板に残された図形は、清掃業者が消そうとしてもチョークが食い込んでおり、完全には消えなかった。 あの図形を見ると頭痛を訴える生徒が数名おり、教室の移動措置をとっている。
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