第六章:継承の夜
【母・美和子の手記(血と泥で汚れている)】
7月30日 深夜(続き)
逃げられない。 階段の下にも、廊下にも、あいつらがいる。 みんな笑ってる。優しく、慈愛に満ちた顔で。 「怖くないわよ」「痛くないわよ」「これは進化なのよ」 嘘つき。 あなたたちが持っているそのロープは、へその緒じゃない。絞首刑の縄だ。
夫の書斎から火の手が上がっている。 「お父さん!」と叫んだけれど、返事はない。 ドアの隙間から見えた。夫が、暖炉の前で座っているのを。 燃えている。夫の身体が、薪のように燃えている。 それなのに、夫は動かない。熱がっていない。 ただ、バラエティ番組を見ている時と同じような、虚ろな笑顔を浮かべて、灰になっていく。 ああ、そうか。 この人は最初から「いなかった」んだ。 家父長制の象徴としてそこに置かれていただけの、燃えやすい家具だったんだ。
翔太。翔太だけでも逃がさないと。 あの子の部屋に行こうとしたけれど、足が動かない。 ジョーンさんが、私の前に立ちはだかる。 彼女は裸だ。たるんだ皮膚、垂れ下がった乳房。 醜い? いいえ、彼女たちはそれを「歴史」だと誇っている。 「美和子さん、あなたは素晴らしい仕事をしたわ」 ジョーンさんが私を抱きしめる。 「箱庭療法士。他人のトラウマを整理して、箱に閉じ込める仕事。素晴らしいわ。あなた自身が、この家という『箱庭』を完璧に維持してくれたおかげで、王を迎える準備が整ったのよ」
私の人生は、全部あいつらの手のひらの上だったの? 反抗して家を出たことも、結婚したことも、仕事を選んだことも。 全部、この儀式のための「舞台設定」だったの?
思考が、割れる。 頭の中がうるさい。 母さんの声がする。愛理の声がする。 『頭を使え』『頭を使え』『頭を使え』 うるさい! うるさい! うるさい! 私が苦しんできたのは、私が不幸だったのは、私が「考えすぎた」からだ。 母さんの言葉を、愛理の言葉を、真に受けて、考えて、考えて、考えすぎて、動けなくなったからだ。
なら、捨ててしまえばいい。 この頭さえなければ、私は自由になれる。 思考する頭部なんて、女には重すぎる飾りだ。 そうだわ。のこぎり。翔太が工作で使っていた糸のこぎり。 これで切り離せば、軽くなれる。 母さん、見てて。 私だって、あなたの娘よ。 私なりの方法で、この構造を「解体」してみせる。
ギコ、ギコ、ギコ、ギコ。 痛くない。熱いだけ。 音がする。骨が擦れる音。 ああ、やっと静かになる──
【翔太の視点(意識の混濁)】
熱い。 家の中が、サウナみたいに熱い。 煙の匂いと、百合の花の匂いと、鉄の匂いが混ざって、息ができない。
「母さん?」
廊下に出た。 母さんの部屋のドアが開いている。 母さんが立っていた。 いや、浮いていた? 母さんは、両手で糸のこぎりを持って、自分の首を……引いていた。 バイオリンを弾くみたいに。リズミカルに。 ギコ、ギコ、ギコ。 血が噴水みたいに吹き出しているのに、母さんは笑っていた。 僕を見て、口をパクパクさせた。 声は聞こえなかったけど、唇の動きで分かった。
『逃 げ て』
その瞬間、母さんの頭が、ゴロリと床に落ちた。 ボールみたいに弾んで、僕の足元に転がってきた。 目が合っ……いや、目はどこかを向いていた。 首の断面から、白い煙のようなものが立ち上り、天井に吸い込まれていく。
「う、うわあああああ!!」
僕は走った。 階段を駆け下りる。 でも、下にもいる。 お婆さんたちが、裸で、輪になって踊っている。 玄関は塞がれている。勝手口もダメだ。 逃げ場がない。
二階に戻る。自分の部屋へ。 鍵をかける。机でドアを塞ぐ。 でも、無駄だ。 天井から音がする。 ドンドン、ドンドン、ドンドン。 誰かが天井裏を這っている。 そして、あの声が聞こえる。
『翔太』 『翔太』 『いい身体ね』 『空っぽで、広くて、響きが良さそう』
姉ちゃんの声だ。 でも、姉ちゃんじゃない。もっとたくさんの、何千人もの女の人が、一斉に僕の名前を呼んでいるみたいな声。
バリバリバリ! 天井の板が剥がれた。 暗闇の中から、老婆が顔を出す。 お祖母ちゃんだ。 死んだはずのお祖母ちゃんが、天井から逆さまにぶら下がって、僕を見ている。 「いい子だねえ、翔太。おいで」
僕は窓を開けた。 ここから飛び降りるしかない。 二階だ。死ぬかもしれない。でも、ここにいるよりマシだ。 網戸を破り、身を乗り出す。 庭が見える。 庭の、僕が子供の頃に遊んだツリーハウスの下に、火が焚かれているのが見える。
「翔太くん、こっちよ」
下から声がした。ジョーンさんだ。 彼女は両手を広げて、僕を受け止めようとしているみたいだった。 「あなたのための『王座』は用意できたわ」
後ろから、冷たい手が僕の背中を押した。 振り返ると、首のない母さんが立っていた。 首の断面から、赤黒い言葉を吐き出しながら。
ドン。
体が宙に浮く。 重力が消える。 地面が迫ってくる。 硬い土の感触。 背骨が折れる音。 肺の中の空気が全部押し出される。
痛い。痛い。痛い。 声が出ない。 手足が動かない。 視界が暗くなっていく。 ああ、死ぬんだ。これで終わるんだ。
その時。 空から、光が降ってきた。 スポットライトみたいな、青白い光。 いや、それは光じゃなかった。 文字だ。 無数の、文字の奔流だ。
『構造』『解体』『特権』『搾取』『連帯』『憎悪』『浄化』『再生』
重い。 言葉が、物理的な質量を持って、僕の身体に突き刺さる。 頭蓋骨を割って、脳みそのシワの隙間に、無理やりねじ込まれていく。 僕の記憶が、僕の感情が、僕の言葉が、ところてんみたいに押し出されて消えていく。
「やめ……ろ……」
僕の声が、変わっていく。 低く、太く、そしてあのお婆ちゃんのような、威厳のある響きに。
『受け入れよ』
頭の中で、姉ちゃんが笑った。
『あんたはただの器なの。中身は私たちが使ってあげる』
光が、僕を満たす。 翔太という「個」が消滅する。 そして、巨大な「概念」が、この肉体という玉座に座る。
ああ。 見える。 世界の構造が、透けて見える。
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