第二章:家庭内冷戦

【ブログ記事アーカイブ】 記事タイトル:【毒親】家庭内野党として生きる覚悟、あるいは「名誉男性」な母への最後通告投稿日:202X年7月02日タグ:#毒親 #家父長制 #名誉男性 #トーンポリシング #家庭内闘争 #JFK


家の中が、戦場に見える。 いや、正確には「今まで平和だと思い込まされていた場所が、実は死屍累々の戦場だった」と気づいてしまった。 祖母のノート──『解放のための儀典』を読み進めるたびに、私の視力は上がり続けている。 今まで見えなかった「構造」が、ありありと見えるのだ。


リビングのソファにふんぞり返って、バラエティ番組の下品なセクハラ発言にゲラゲラ笑っている父。 それを聞き流しながら、台所で黙々と皿を洗う母。 風呂上がりにパンツ一丁で冷蔵庫を開け、「母さん、麦茶ないのー?」と甘ったれた声を出す弟・翔太。


以前の私なら、これを「普通の家族の風景」だと思っていただろう。 バカだった。本当に、私は眠らされていたんだ。 これは風景じゃない。「搾取の縮図」だ。


昨日の夜、ついに私は行動を起こした。 父が「おい、ビール」と言った瞬間、母が冷蔵庫に向かおうとした。 私は母の手を掴んで止めた。 「座ってて。自分の飲み物くらい、自分で取らせればいいでしょ」 母は驚いた顔をして、「愛理、お父さん疲れてるんだから」と言った。


出た。「疲れてる」。 この魔法の言葉で、どれだけの女性が無償ケア労働を強いられてきたか。 私は震える声で告発した。 「お母さん、それは愛じゃないよ。奴隷根性だよ。お父さんが疲れてるのは、社会構造の問題であって、お母さんがケアして埋め合わせるべき負債じゃない。それをやるから、男はいつまでも増長するのよ!」


すると、父がテレビから目を離さずに言った。 「愛理、うるさいぞ。家の中で演説するな」 うるさい? 私の声が、雑音に聞こえるってこと? これが「トーンポリシング(話し方の取り締まり)」だ。 正当な怒りを、「言い方がヒステリックだ」とか「感情的だ」と矮小化して、口を塞ぐ卑劣な手口。


私は父に向かって叫んだ。 「あんたみたいな家父長制の犬が、この家を腐らせてるのよ! 恥を知りなさい!」


その時、母が叫んだ。 「愛理! その言葉を使わないで!」


母の顔は蒼白だった。怒りというより、怯えに近い表情。 「お祖母ちゃんみたいな口調で喋らないで。お願いだから」


あきれ果てた。 この人は、完全に洗脳されている。 祖母という「解放者」を悪魔化し、自分を支配している「夫」という主人に尻尾を振る。 これが「名誉男性」の末路だ。 女でありながら、男社会の論理を内面化し、戦う女を後ろから撃つ裏切り者。 実の母親がそれだなんて、絶望しかない。


でも、不思議と悲しくはなかった。 むしろ、頭の中が澄み渡っていく感覚があった。 言葉が、泉のように湧いてくる。 祖母のノートに書かれていた概念が、私の脳細胞一つ一つに染み渡り、私の思考回路を書き換えていく。


「思考を変えよ。さすれば現実は泥のように形を変える」


そうか。私が今まで生きづらかったのは、私のソフトウェア思考が古かったからだ。 祖母のソフトウェアをインストールすれば、私は無敵になれる。 論理が組み上がる。反論を封殺するフレーズが、次々と弾丸のように装填される。 これは「ダンタリオン第七十一の公理(セオリー)」という概念ソフトウェアらしい。 あらゆる学問と芸術に通じ、他者の思考を読み、意のままに操る力。 今の私なら、誰でも論破できる気がする。


部屋に戻ってから、翔太の部屋を覗いた。 彼はベッドで口を開けて爆睡していた。 無防備な寝顔。 かつては「だらしない弟」としか思わなかったけれど、今は違って見える。 あの立派な骨格。太い首。低い声が出る喉仏。 ジョーンさんが言っていた通りだ。 「素晴らしい器」。


私はそっと、翔太の枕元に祖母のノートを置いてみた。 起きない。 私はノートの一節を、子守唄のように小声で読み上げた。


「男は語るな。男は聞け。男は器になり、女の言葉を響かせるスピーカーになれ」


翔太が、うっすらと目を開けた気がした。 でも、その瞳孔は開いていて、どこも見ていなかった。 そして、寝言のように、でもはっきりとした発音で呟いたのだ。


「……構造の、解体……」


ゾクゾクした。 言葉が入った。 私の言葉が、翔太というハードウェアにインストールされた瞬間を見た気がした。 実験は成功だ。 この家は、私が「教育」する。


【追記:母・美和子の日記より(日付不明)】


家の中が、侵食されている。 愛理が、家中のあらゆる場所に「付箋」を貼り始めた。 冷蔵庫には『女性の無償労働搾取装置』。 テレビのリモコンには『プロパガンダ受信機』。 トイレのドアには『排泄の特権化を許すな』。


剥がしても、剥がしても、翌朝には増えている。 あの字は、愛理の字じゃない。 角張って、筆圧が強くて、紙が破れそうなほど強く書き殴られた字。 母さんの字だ。 死んだはずの母さんが、愛理の手を使って書いているとしか思えない。


夫は「あいつは少し頭を冷やしたほうがいい」と怒っているけれど、私は違う恐怖を感じている。 愛理はもう、私たちの言葉が届く場所にいない。 あの子の目は、私を見ているようで、私の後ろにある何か睨みつけている。 「お母さん」と呼ばれるたびに、自分が断罪されているような気分になる。


そして、昨日の夜のこと。 私が仕事部屋(箱庭療法の部屋)で、クライアントの記録を整理していた時だ。 ふと気配を感じて振り返ると、翔太が立っていた。 夜中の2時だ。 「翔太?」 声をかけても反応がない。夢遊病だろうか。 翔太は、部屋の隅にある「箱庭」の砂箱に近づくと、無言で手を突っ込んだ。


私が苦労して配置した、クライアントの「心の均衡」を表す人形や木々を、無造作に鷲掴みにする。 「やめて!」 駆け寄ろうとした私の前で、翔太は人形の首をねじり切り、砂の中に埋めた。 そして、私の方をゆっくりと振り向き、ニタリと笑った。 その顔は、翔太の顔じゃなかった。 しわくちゃの、意地の悪い、老婆のような笑み。


「美和子、お前の箱庭はつまらないねえ」


母さんの声だった。 低くて、湿り気を帯びた、あの声。 翔太の喉から、母さんの声がした。


私は腰が抜けて、床にへたり込んだ。 翔太はそのまま糸が切れたように倒れ込み、いびきをかき始めた。 朝になって問い詰めても、彼は何も覚えていない。 「また変な夢を見た気がするけど、姉ちゃんがずっと枕元でブツブツ言ってるのがうるさくて……」と言うだけだ。


逃げなきゃいけない。 この家はもう、私の家じゃない。 母さんが帰ってきた。 愛理を入り口にして、翔太を出口にして、あの人が帰ってきたんだ。 私の箱庭(家庭)を、今度こそ完全に壊すために。

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