感電者

古間木紺

第1話 感電

 吹奏楽部を引退して一年経つのに、結局部活の友達と下校してしまう。環菜はそれが悪いことではないと知っていても、あの日々を超える日は来ないと仄めかされているような気がしていた。

 高校の最寄駅は二つあって、友達は私鉄、環菜と幼馴染の匠海は地下鉄だから、環菜は三年生になっても匠海と登下校をともにしていた。帰りは上り方面だから空いていて、いつも並んで座っている。

「二年生に戻りたい」

「どうしたの急に」

 リュックを抱えながら呟くと、匠海が怪訝そうに見つめてきた。そんなことなくない? 目がそう言っている。

「楽器が吹きたい。もうアンコン出れないかな」

 行きたい大学こそあっても、基本的に受験勉強はつらくてしんどい。受かるために趣味はストップせざるを得ないし、苦手な教科にも向き合わないければいけない。例えば英語とか。だから戻りたかった。凄まじい才能に導かれて掴んだ栄光に、もう一度温められたかった。

「……まぁ、まずは海成に戻ってきてもらわなきゃだけど」

「そうだねぇ」

 聞いているのかいないのか、ぼんやりとした返答が返される。見上げると、単語帳に目を戻していた。匠海も一般受験組だから、雑談に割く時間なんかない。それは分かっていても、話くらい聞いてほしかった。環菜は再び口を開いた。

「戻ってこないかな」

「戻らないよ」

 まるで海成本人であるかのように、匠海が答えた。そうだ。海成はすぐに戻ってこれるような場所にいない。彼はイギリスに旅立った。

 海成は吹奏楽部の同期兼学生指揮者だった。それまでの学生指揮者はせいぜい文化祭でちょっと指揮を振る程度だったのに、海成は日々の指導からコンクールまで振った。そうして、環菜の代で全国大会出場を果たした。

 環菜は部長だったから、海成とはよく話すことがあった。だから、彼が高校を中退してまでも留学に踏み切った理由は知っている。

 小学校の吹奏楽クラブでホルンを始めた海成は、そこで音楽の魅力に嵌り、作曲家になると決めた。好きな作曲家に教わりたくてイギリス留学を決めたのは、中学のときだという。それでも、吹奏楽部で皆と目標に向かう楽しさが忘れられなくて高校に進学したらしい。

 けれど、それは半分本音で半分建前でもあった。海成が入学を希望していた音楽学校は、十八歳以上からでないと入学できなかったからだ。言い換えれば、海成にとって高校生活はちょっとしたモラトリアムだった。充電期間を満喫した夏生まれの海成はすぐに海を渡った。イギリスは九月から新学期が始まる。

「……一年生やり始めて、三か月か」

「そうだね」

「連絡取ってる?」

 いちばん仲良かったじゃん。環菜はそうも続けた。

 部長の環菜、学生指揮者の海成、部内随一の実力者として匠海。環菜の代はそういう関係性ができあがっていた。けれど、綺麗な正三角形を描いていたかと言われるとそうでもない。少なくとも線の太さと線分の長さに違いがあった。

 いちばん太くて短かったのが海成と匠海だった。ふたりが出会ったのは高校からだったけど、お互いにお互いの眼鏡にかなう相手だった。海成の指示の意図を的確に掴むのは匠海がいちばん上手かったし、匠海の良さが出るようなバランスを常に考えているのが海成だったくらいには。それに、海成が自作曲を持ってくることが何度かあったが、ずば抜けた信頼関係によって毎回匠海のフルートソロが入っていた。

 環菜も周囲でさえも、それは当然だと思っていた。そうさせる力がふたりの関係にはあった。ふたりともずば抜けて上手いし、名前に同じ漢字が入っているし。理由なんて後付けだった。

「そのことなんだけど」

「うん?」

 変だと思った。ただ、おかしいとは思っても、理由とか、原因は分からない。強いて言うなら幼馴染としての勘が働いている気がする。

「俺もイギリスに行くことにした」

「……は」

 いつ決めたの、どうして決めたの、許してもらえたの。そんなこと、と思った。匠海には物理の先生になって吹奏楽部の顧問をやるという夢があるはずだった。海成ほどの才能が無いけど、それでも音楽は続けていたいからといつもの謙虚さで決めたはずだった。それなのに、匠海はそれは偽物だと言わんばかりに熱を帯びた口調で全てを語っていく。それは駅に着いても続いた。

「やっぱり海成のそばで音楽を続けたいんだ」

「それはそうだと思うよ。けど、私が言いたいのは、何も同じ学校に行かなくてもいいじゃんってことで」

「海成の曲を誰かがやってんの、死ぬほど腹立つんだよね」

「……え?」

 いつもエスカレーターは並んで立たない。匠海が環菜を見下ろす。いつもの匠海らしくないと思った。吐き捨てられた腹立つという言葉も、その目も。嫉妬のようで何かが混ざっている目だった。

「海成のこと、そういう意味で好きなの?」

「そういう意味?」

 いつもの穏やかな目が細められる。エスカレーターから降りて改札に向かいながら、環菜は言い直した。

「その……海成と付き合いたいのかなって」

 ああ。匠海は思い出したように相槌を打った。顔を環菜に向けて、答えてくれた。

「俺ゲイじゃないよ」

「そっか」

 自分で広げた風呂敷だったけど、果たしてその返答が妥当だったかは自信がない。次の話題が探せないでいると、匠海が逆接を打った。

「海成のいちばん近くに俺がいないのが嫌だ。そうじゃなきゃおかしいと思ってる」

 再び、匠海の目が熱を孕んでいた。それこそが恋なんじゃないの。今までの自分が自分でなくなるような。匠海は海成に作り変えられてしまったのだ。

「……つまんない」

 匠海をそうさせたのは海成だと思っていても、目の前の人間がひどくつまらないと思ってしまった。高尚な夢はきちんと素晴らしいし、環菜が言うより何倍も実現させそうだと思う。それでも、何かが嫌だった。匠海は海成にならないと思っていたから。

 気づけば、匠海と歩く距離が開いていた。匠海は既に改札を出ている。少し歩いて、匠海が振り返った。環菜がいないことに気づいたようだった。

「環菜。二十二日の十八時のフライトだから」

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