(本編補完)第三章:定位置は上腕二頭
あの早朝の窓ガラスへばりつき事件以来、ロミアの距離感は完全に崩壊した。
パーソナルスペースという概念は消滅し、俺の半径五十センチ以内は彼女の固有領土と化した。
移動教室、昼休み、掃除の時間。隙あらば俺の背中や腕に体の一部を接触させてくる。
「充電!」「補給!」「摂取!」
そんな単語を連呼しながら、彼女は俺にへばりつく。
そして放課後。昇降口を出たところで、ロミアが立ち止まった。
「○○くん、緊急事態。ロミア、足の機能が停止したかも」
「ただの運動不足だろ」
「違うの!○○くんへの愛が重すぎて、重力に負けたの!だから家までおんぶして!」
真顔で要求してきやがった。ここから彼女の家までは徒歩二十分。
真夏の湿気の中、密着面積の広いおんぶで帰るなど、苦行以外の何物でもない。
背中にあの振動と熱量を感じながら歩くのは、精神的にも体力的にも限界だ。
俺は拒否しようとしたが、ロミアの目は本気だった。
「断ったらここで大声で愛を叫ぶ」という決意に満ちていた。
そこで俺は、ある賭けに出た。
おんぶは背中全体が密着して暑苦しい。
ならば、不安定で恥ずかしさのレベルが高い体勢を提案すれば、さすがの彼女も諦めるのではないか。
「おんぶは嫌だ。背中が蒸れる」
「えー!じゃあどうするの!?ロミアをここに放置する気!?」
「……“お姫様抱っこ”なら、やってやる」
俺がそう告げると、ロミアは一瞬きょとんとした。
勝った。
いくらなんでも、白昼堂々の往来でその体勢は羞恥心が勝つはず──
「採用!!」
「は?」
「それ採用!決定!クーリングオフなし!」
ロミアは光の速さで俺の腕の中に飛び込んできた。
ドスン、という衝撃と共に、俺の両腕に重みが乗る。
反射的に支えてしまったが、ロミアはすでに俺の首に腕を回し、ベストポジションを確保していた。
「すご……これ、すごいよ○○くん!高い!揺れが心地いい!安定感が半端ない!いい匂い!」
「いや、お前恥ずかしくないのかよ!?あとどさくさに匂い嗅ぐな!!」
「全然!むしろ世界中の人に自慢したい!ロミアは今、選ばれし者として運ばれているの!」
彼女は俺の腕の中で足をバタつかせ、歓喜の声を上げる。
計算が狂った。羞恥心などというブレーキは、彼女の暴走機関車には搭載されていなかったのだ。
仕方なく俺は、ロミアを抱えたまま歩き出した。
~~~
すれ違う通行人の視線が痛い。
「うわぁ」という声が聞こえる。
だが、腕の中のロミアは至福の表情で目を閉じ「ん~、ん~♪」と鼻歌交じりの唸り声を上げている。
その振動が腕を通して直接伝わってくる。
最初は二十分だけだと思っていた。家に着いたら解放されると。
だが、甘かった。
家の前に着き「ほら、着いたぞ」と下ろそうとした瞬間、ロミアが俺のシャツを握りしめて抵抗したのだ。
「やだ!降りない!地面なんて固くて冷たいとこ、もう歩けない!」
「足あるだろ!歩け!」
「進化したの!ロミアの足は、○○くんの腕にフィットするように進化しちゃったの!ここがロミアの定位置なの!」
「進化の方向性がおかしいだろ!」
結局、その日は玄関先で十分ほど押し問答をした末、母親が出てきて強制終了となった。
~~~
しかし、本当の地獄は翌日からだった。
ロミアは「お姫様抱っこ」という極上の移動手段の味を占めてしまったのだ。
朝、家を出ると、ロミアが待ち構えている。
「おはよー!はい、腕出して!搭乗手続きしまーす!」
当然のように助走をつけて飛び乗ってくる。
学校の廊下でも、移動教室のたびに「ヘイ、タクシー!」みたいなノリで俺の前に立ちはだかり、両手を広げる。
「ちょっと、そこまで運んで?ロミア、エネルギー切れで点滅してるから」
「歩け」
「あーっ!倒れる!ロミア儚く散っちゃう!地面に激突して粉々になる!」
大げさにふらつく演技を見せられ、俺はため息をついて彼女を抱え上げる。
もはや俺の上腕二頭筋は、連日の負荷によってパンプアップされ始めていた。
クラスメイトたちは、俺がロミアを抱えて教室に入ってきても、もはや誰も突っ込まない。
「ああ、そういうセットなんだな」という諦めの境地に達している。
ロミアは俺の腕の中で、完全にリラックスしていた。
授業中以外は、常に俺の腕か膝の上にいる。
その姿は、まるで大木に定住を決めた何かのようだ。
ある放課後、俺は腕の中のロミアに聞いた。
「お前、一生そうしてるつもりか?」
ロミアは俺を見上げ、ニカっと笑った。
「うん!○○くんの腕!ずーっとくっついてる!
ロミア、ここが一番大好きで安全な場所だって気づいちゃったから!」
彼女は俺の胸に耳を押し当て、満足げに目を閉じる。
その口元から漏れる「しあわせ~……」という声は、相変わらずうるさくて、熱苦しくて、そしてどうしようもなく愛おしい。
俺は諦めて、少しだけ強く彼女を抱き直した。
この騒がしい季節は、当分終わりそうにない。
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