第零章:種子の擬態

雨が降っていた。

まだ幼稚園の頃の記憶だ。



あの頃の俺は、他人の家と比べることもできず、両親がどれだけ冷たかったのかすら、よく分かっていなかった。

けれど、彼女は、もっと分かりやすかった。



「せんせー!ロミアね、踊れるよ!ちょうちょのやつ!」



小さな声じゃなかった。

教室の空気を揺らすくらい、大きくて弾んでいて、目立ちたがりの子供そのものだった。

でも、俺は気づいていた。ロミアは、誰かが見ていないとすぐに黙ってしまう子だった。



その日、幼稚園で“おゆうぎかい”の練習があった。

テーマは「いろんな虫さんのダンス」。

子供向けの、ありきたりなイベント。

なのにロミアは、真剣だった。



バタフライの衣装を着て、くるくると教室を駆け回っていた。

誰よりも高く跳ね、誰よりも派手に手を振る。

リボンがぶんぶん揺れるたび、先生たちは笑って拍手をした。



「すごいね、ロミアちゃん!盛り上げてくれて、ありがとう!」



その瞬間だった。


ロミアはぴたっと止まり、目を見開いたまま固まっていた。

まるで“なにか”を掴んだように。

見ていた俺は、寒気がした。


そのあと、彼女は両親の元に駆け寄った。


「あのね、ロミアね!すごかったんだよ!」


「へえ……ふうん。……えらいな」


その言葉が、ロミアを変えた。


それまで、彼女の家の前を通るたびに聞こえていた「静寂」。

どなり声もなく、笑い声もない。

でもあの日だけは違った。



「明日もがんばるのよ」



母親が口にしたその一言が、どれほどの意味を持っていたか。


あの頃の母親は、疲れた顔でそう言っただけだった。仕事から帰ってきて、すぐにスマホをいじり始める。

褒め言葉は出たけど、目が笑ってなかった。ロミアはそれでも喜んだ。

でも──あれは、本当の関心じゃなくて、ただの「義務」みたいなものだったのだろう。



~~~



次の日からのロミアは、“常に演じる”ようになった。

大げさな笑い、飛び跳ねるような歩き方、リボンを何度も振り直す動き。

先生が見ていなくても、友達が見ていなくても、常に舞台の上にいるかのようだった。


俺の隣で、つまらなそうに砂遊びをしていた男の子がつぶやいた。


「ロミアって、うるさくない?」


俺は答えなかった。

ただ、ロミアの目だけが見えていた。



ぼんやりとした記憶だけど、あの子の言葉を聞いたとたん、笑顔がピクリと固まったのを、なんとなく覚えていた。

数年経って高校で再会した時、最初はピンと来なかった。

でも、あの目を見た瞬間、幼稚園の記憶がフラッシュバックみたいに蘇ってきて、寒気がした。



でも、すぐに彼女はまた笑っていた。

大きく、大きく口を開けて。



「もぉ〜!そんなこと言うと、ロミア泣いちゃうよぉ!うぇーん!」



わざとらしい泣き真似。

他の子たちは笑った。

ロミアも笑った。



でも俺には分かった。

あれは泣き真似なんかじゃなくて、本当に泣きたかっただけだったって。



それから、ロミアは“注目されること”を止めなかった。

運動会では転びながらも笑顔でポーズを決め、発表会では自分だけ振り付けを大きく変えてアピールした。

先生たちは褒めた。



「ロミアちゃんは、みんなを楽しませてくれる子だね」

そのたびに、彼女の目はキラキラしていた。



……いや、違う。



『キラキラさせようと頑張っている目』だった。



いつしか俺は思うようになった。

この子は“演じてる”。

感情を爆発させることで、誰かの関心を得ようとしている。


怒る、泣く、笑う──全部、誰かが反応してくれなきゃ意味がない。

誰も見てくれないと、“無”になることを恐れてる。



それは幼稚園の頃の俺には、まだ言葉にできない“恐怖”として、胸に残った。



そして数年後、俺はロミアと再会する。

リボンを揺らし、笑いながら駆け寄ってくる、あの派手な声とともに──



だけど、あの時の目だけは、ずっと変わっていなかった。

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