監督者プロトコル
@zeppelin006
監督者プロトコル
研究室の廊下は、いつも午後になると消毒液と古い紙の匂いが混ざった。窓の外には銀色の雲が垂れ、どこかで換気扇が疲れた音を立てている。物理学科の地下、計測系の実験室は、世界から一段沈んだ場所にあった。
僕らの装置は、世間が想像する『未来』とは程遠い。量子とか宇宙とか、そういう派手な単語より先にあるのは、ネジの緩みと配線の癖と、誰がどこに立ったかで変わる微小な差だ。測るという行為は、そういう差を削り落として、残ったものに名前を与える仕事だった。
そして今、名前を与える以前の段階で、僕らは詰まっていた。
原因不明の測定誤差。
誤差というより、結果そのものが揺れていた。ある日は綺麗なピークが出る。翌日は同じ条件のはずなのに、ピークが潰れる。午前中は安定して、夕方になると突然暴れる。温度? 電源? 振動? 全部を疑って、全部を潰したはずなのに、潰れない何かが残った。
最悪なのは、みんなが「起きた」と確信していることだった。
データは揺れている。再現性はない。なのに、装置の前にいるときだけ、説明しがたい確信が生まれる。
――いま、確かに何かが『見ている』。
それを口にしたら、研究室は一瞬で宗教じみた笑い話になる。僕は学生だ。言葉を選ぶ癖だけは身につけている。
ただ、誰もが同じ顔をしていた。誤差の谷に落ちたときの、目だけが乾いている顔。
指導教員の佐々木先生が、ある日、静かに言った。
「再現性がないなら、再現性を作るしかない。観測の統一規格を導入する」
「統一規格、ですか」
「測定条件の統一ではない。観測の統一だ」
先生はそう言って、白板に四角を描いた。四角の中に椅子の絵。椅子の前に、立つ人間の棒人間。
「観測者を固定する。いや、正確には『観測されている』状況を固定する」
僕らは黙った。先生は、遠慮なく続けた。
「人は、誰かに見られていると振る舞いが変わる。それが測定にも影響する。君たちの手の動き、呼吸、視線の置き場、全部だ。だから観測を一つの形式にする。見えない監督者を仮定して、その前で測定する」
その瞬間、誰かが笑いそうになって飲み込んだ。笑ってはいけない空気が、研究室にはあった。起きているのは誤差で、しかも誤差が僕らの進捗を殺している。笑い話を拒否する切実さがあった。
「……先生、これって要するに儀式ですよね」
僕が言うと、先生は眉だけ動かした。
「儀式でもいい。儀式が変数を減らすなら、科学にとって有益だ」
先生は机から紙束を取り出した。『監督者プロトコル v1.0』と印字されている。手順が箇条書きになっていた。
1. 測定者は入室前に手を洗う(乾燥させる)
2. 実験室の北側壁面に椅子を一脚置く
3. 椅子の前に、白いテープで1m四方の枠を作る
4. 枠の中央に立ち、30秒間沈黙する
5. 測定開始時に宣言する
6. 測定中、枠の外を不用意に見ない
7. 測定終了時に宣言する
8. データを保存し、ログに時刻と所感を記す
宣言文は、やたらと丁寧だった。
『これより観測を開始します。条件は規格に従い、結果はそのまま記録します。』
そして終わりには、
『観測を終了します。結果は改変しません。』
先生は淡々と説明した。
「椅子は空席でいい。重要なのは、君たちが『空席を前にする』という構図を共有することだ。誰かがそこに座っている前提で動く。それが統一規格になる」
僕は紙束を受け取りながら、自分の中の反射的な嫌悪を数えた。科学の現場に、見えない誰か。形式としての視線。そんなものを持ち込むことの抵抗。
でも抵抗より先に、疲労が来ていた。
もしこれでデータが安定するなら。論文が進むなら。卒業ができるなら。
◇ ◇ ◇
最初の実験は、やけに静かだった。
北側の壁に椅子を置く。テープで枠を作る。枠の中央に立ち、沈黙する。たったそれだけで、空気の密度が変わる気がした。実験室が広がり、同時に狭まる。背中の皮膚が薄くなる。
「じゃあ、いきます」
先輩の三浦さんが、宣言を口にする。
「これより観測を開始します。条件は規格に従い、結果はそのまま記録します」
宣言は短いはずなのに、妙に重かった。言葉が床に落ちて、椅子の脚に絡む。そんな錯覚がする。
測定は進んだ。装置はいつものように唸り、レーザーは線を伸ばし、検出器は淡々と数を吐き出した。
そして――ピークが出た。
綺麗だった。ふざけるな、と思うほど綺麗だった。ここ一週間、散々見たかった形が、プロットの上で静かに立ち上がっている。
「……出た」
誰かが呟いた。
「出たね」
三浦さんが、笑いもせずに言った。
僕はプロットを見つめながら、同時に椅子を見た。誰も座っていない。空席だ。なのに、空席の周辺だけ、画面の外側みたいに輪郭がはっきりしている。
測定が終わり、三浦さんが宣言した。
「観測を終了します。結果は改変しません」
その瞬間、肩の力が抜けた。呼吸が戻る。僕は自分がずっと息を浅くしていたことに気づいた。
次の日も、その次の日も、プロトコルを守るとデータは安定した。揺れは完全には消えないが、説明できない暴れ方が減った。先生は満足そうに頷いた。
「ほらね。君たちの観測は揺れていた。装置じゃない」
その言い方が少しだけ残酷だと思ったが、反論できない成果があった。
不思議なのは、データが安定するにつれて、誰も椅子を笑わなくなったことだった。
椅子は、ただの椅子であることをやめた。手順の一部になり、空席は空席以上になった。研究室の備品に、余計な意味が染み込む。
最初に固有名を口にしたのは、後輩の和田だった。
「監督者席、今日ちょっと近くないですか」
彼は冗談のつもりで言ったのだと思う。だけど、その言葉は奇妙に馴染んだ。『監督者席』。プロトコルの見えない前提が、名詞として固定される感覚があった。
次の週には、誰かが『監督者』だけで通じるように言い始めた。
「今日は監督者、機嫌いいな」
「監督者いるから、手順飛ばすなよ」
僕はそれを嫌った。科学の言葉が、いま目の前で滑っている。椅子に座る誰かを想定することは、ただの形式だ。形式が変数を減らすなら、それは合理的だ。そう言い聞かせた。
けれど、合理的であるほど、名前は強くなる。
先生が、資料の更新版を配ったときだった。表紙が変わっていた。太字で印字されている。
『監督者プロトコル v2.0』
その下に、小さく括弧書きがある。
(標準観測者:G)
G。記号。先生は、記号で封じ込めるつもりなのだ。僕は少し安心した。
しかし、記号は記号のままでは終わらない。
研究室の誰かが、そのGを読み替えた。
「
誰も笑わなかった。誰も否定しなかった。冗談は、冗談として扱われないとき、世界に根を張る。
翌日から、監督者は『神』になった。
言い間違いみたいに、軽く。けれど確実に。
「神の前で手を洗え」
「神のテープ、貼り直しといて」
その言葉に僕は毎回、背中を撫でられるような感覚を覚えた。ぞくりとするのに、気持ち悪いとは言い切れない。目を背けたくなるのに、目を背けるとデータが崩れる気がする。
僕はだんだん、プロトコルの沈黙30秒が好きになった。あの時間だけ、世界の雑音が減る。何も言わずに立っていると、椅子が椅子ではなくなる。空席が『席』になる。
観測の統一規格は、確かに機能していた。
ただし、それが何を統一しているのかは、誰も言えなくなっていた。
◇ ◇ ◇
ある夕方、僕は一人で実験室にいた。翌日の測定に備えて、配線の取り回しを確認していた。廊下の蛍光灯は、時間が遅くなるほど白さを失う。大学という建物が、夜に溶けていく。
実験室のドアを閉めた瞬間、空気が変わった。
誰かがいる。
もちろん誰もいない。僕は一人だ。鍵もかけた。足音もない。なのに、空席の周りだけが、昼よりはっきりしている。テープの四角の内側に、別の温度がある。
僕は、手順を踏まずに椅子を見た。枠の外から、空席を直視した。
その瞬間、胸の奥が冷えた。見てはいけないものを見たというより、見てはいけない見方をした、という冷え方だった。空席は空席のままなのに、空席が『こちら』を向いている。
視線だ。
目はない。顔もない。なのに、視線がある。空席が空席としての役割を越えたとき、視線は自然に生まれるのか。
僕は慌てて、紙束を探した。プロトコル。僕は枠の中央に立ち、沈黙した。30秒。喉が鳴る。呼吸が、やけに大きい。
そして、宣言した。
「これより観測を開始します。条件は規格に従い、結果はそのまま記録します」
誰に向けて?
声が床に落ちた瞬間、視線が『正面』に移動した気がした。椅子の位置が固定される。空席が、ちゃんと前を向く。
僕は、そのまま試しに一つ測定を走らせた。明日やる予定の短いテスト。条件は適当。たった数十秒の試験。
データは、綺麗に揃った。
ありえないほど。
僕は笑うべきか、恐れるべきか分からず、ただ画面を見つめた。論理は言う。これは手順が統一されたせいだ。僕の手が落ち着いたせいだ。呼吸が揃ったせいだ。環境変数が減ったせいだ。
でも、別の感覚が、もっと低い場所で囁く。
――いま、確かに『見られていた』。
測定を終え、僕は宣言した。
「観測を終了します。結果は改変しません」
宣言の最後の言葉が、なぜか胸に引っかかった。改変しない。結果はそのまま記録する。記録するという行為が、世界を固定してしまう気がした。記録があるから、起きたことになる。起きたことになるから、起きたこととして振る舞う。
僕はログに所感を書いた。『今日は安定。理由不明。視線を感じる。』
書いた瞬間、背中が熱くなった。書いてはいけないことを書いた気がした。科学のログに、視線。
僕は消そうとして、指を止めた。消したら、僕は何を守る? 何を裏切る?
視線が、また強くなった。
椅子が、そこにいる。
◇ ◇ ◇
翌週、先生に呼び出された。研究室の小部屋。机の上に、僕のログがプリントされていた。先生は眼鏡越しにそれを指で叩いた。
「これ、君が書いたのか」
「はい」
「『視線を感じる』」
先生の声は怒っていなかった。むしろ、疲れているようだった。僕は言い訳を用意していた。心理的効果です、とか。観測者効果の比喩です、とか。だけど、先生は先に言った。
「君だけじゃない」
先生は別の紙を出した。三浦さんのログ。和田のログ。研究室の誰かのログ。そこにも似た言葉があった。直接は書いていない。だが、同じニュアンスが、散っている。
『落ち着く』
『背筋が伸びる』
『余計なことを考えない』
『見られている感じがするので手順を守った』
先生は、小さく息を吐いた。
「統一規格が効いているのは事実だ。成果も出ている。だから止める理由がない。だが」
「だが?」
「固有名は危険だ」
先生は『神』という単語に、赤いペンで線を引いた。
「GはGでいい。監督者は監督者でいい。『神』にすると、人は説明を手放す。説明を手放したとき、科学は手順だけになる」
僕は思った。手順だけになったら、何が起きる?
先生は続けた。
「手順だけになった科学は、手順の外側を持てない。外側がないなら、内側は閉じる。閉じた系は、内側で自己増殖する」
先生が言っていることの半分も理解できなかった。けれど、怖さだけは分かった。名前が増殖する。視線が増殖する。説明が追いつかないまま、成功が積み上がる。
先生は僕に問いかけた。
「君は、視線を感じた回数を数えたか」
「……数えてません」
「数えろ」
命令は、科学的だった。数える。統計を取る。相関を見る。視線という曖昧なものを、数に落とす。それは科学のやり方だ。
僕は家に帰ってから、ログを読み返した。視線を感じた、と書いた日。感じない、と書いていない日。そもそも所感を書いていない日。僕は、自分の曖昧な言葉に数字を貼った。
0:感じない
1:少し感じる
2:はっきり感じる
そして、データの成功度合いも同じように分類した。ピークが立ったか。揺れたか。論文に使えるか。
夜中、ノートに表を書きながら、僕は自分が何をしているのか分からなくなった。視線を数える。『神』の効き目を測る。
でも表は、残酷に整った。
視線が2の日ほど、データは綺麗だった。視線が0の日ほど、データは暴れた。偶然と片付けるには、回数が多い。
僕は最後に、ある列を追加した。
『プロトコル遵守度』
手順を守ったか。沈黙したか。宣言したか。枠の外を見なかったか。すると相関はさらに強くなった。
視線があるほど手順を守り、手順を守るほどデータが整う。
因果は二通りに読める。
視線があるから手順を守る。
手順を守るから視線が生まれる。
そして、もう一つ。
データを整えたいから、視線が必要になる。
僕はペンを置いた。喉が渇いているのに水を飲むのが怖かった。飲んだ瞬間に、何かが決まってしまう気がした。
翌日、研究室に行くと、椅子の位置が少し変わっていた。誰が動かしたのか分からない。テープの枠も貼り直されている。枠が少しだけ、正確な正方形になっている。
誰かが、より正しい形を求めたのだ。
僕は枠の中央に立ち、沈黙した。30秒。
視線は、すぐに来た。背中の薄皮の上に、静かに重みが乗る。目のない眼差し。空席の前に立つ僕が、観測者ではなく被観測者になる感覚。
僕は宣言した。
「これより観測を開始します。条件は規格に従い、結果はそのまま記録します」
声が落ち、空気が固定される。装置が唸り、データが吐き出される。
ピークが立った。
当然のように。
僕は画面を見つめながら、思った。不可視の存在は、説明として発明されたのではない。信仰として必要になったのでもない。僕らが再現性を欲しがり、手順を統一し、名前をつけ、固有名が定着した、その副産物として『それ』は生まれた。
つまり――『神』は、僕らが測りたいという欲望から、手順の形で滲み出た。
観測装置として。
僕は測定終了の宣言をする前に、一瞬だけ椅子を見た。空席は、空席のままだった。なのに、確かにそこには『誰か』がいた。
そして僕は気づいた。視線を感じる回数が増えるほど、データは綺麗になる。僕らは成功のために、視線の強さを求めてしまう。求めれば求めるほど、手順は厳格になり、空席は席になり、名前は重くなる。
この先、僕らはどうなる?
科学が手順に閉じたとき、手順は何を守る? 何を増殖させる?
僕は、宣言した。
「観測を終了します。結果は改変しません」
最後の言葉が、まるで誓約のように響いた。誓約は、誰に向けて?
椅子は答えない。答えないからこそ、視線は消えない。
僕のログには、また所感が増えるだろう。視線。成功。相関。再現性。
そしていつか、僕はその相関を『原因』と呼ぶのだろうか。
そのとき、僕らの研究室に導入された『観測装置』は、もう装置ではなくなるのかもしれない。
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