助けなかった勇気

@popomi1221

第1話

 息子を助けようとして倒れた夜、私は初めて「助けない」という選択肢を知った。



 母親なら、守るべきだと信じてきた。

 

 転ばせないように、傷つかせないように、先回りして道を塞いできた。その結果、私は床に倒れ、息子は立ち尽くしていた。


 頭の奥がじんと熱く、視界の端が滲む。天井の模様がゆっくり回り、遠くで誰かの声がする。

 名前を呼ばれている気がするのに、返事をする力がなかった。ただ、息子の足音だけははっきり聞こえた。逃げる音ではない。近づいてくる音だった。


 そのとき私は、助けなければ、と思わなかった。


 代わりに浮かんだのは――この子の人生は、この子のものだ、という当たり前すぎて、今まで見えなかった事実だった。


 息子の足音が、次第に遠くなる。


 いや、違う。遠くなっているのは、私のほうだった。


 耳鳴りが、波の音に変わる。


 救急車のサイレンは、長い旋律のように引き伸ばされ、やがて意味を失った。目を閉じると、暗闇の奥に色が滲み出す。青と緑が溶け合い、輪郭を持った風景になっていく。


 気がつくと、私は草の上に横たわっていた。


 土は柔らかく、空は不自然なほど高い。雲は止まったまま、まるで背景画のように貼り付いている。ここで息子が何度も夜を越えてきたのだと、なぜか分かった。


 「……来てしまったのね」

声は、思ったより落ち着いていた。


 現実から切り離されたという恐怖よりも、胸にあったのは妙な納得だった。助けなければ、と力を入れすぎた瞬間に、私はこの世界へ押し出されたのだ。


 遠くで、少年の泣き声がした。


 草を踏みしめる音に、少年はびくりと肩を揺らした。振り向いた顔は、怯えよりも、諦めに近い色をしていた。


 「……来ないで」


 声は低く、けれど強がっていた。

逃げ道を探す目。何かを期待しているのに、期待すること自体を怖がっている目。


 「大丈夫。追いかけてきたわけじゃないわ」

そう言うと、少年は少しだけ距離を取ったまま、地面を見つめた。


 「どうせ、助けるんでしょ」

棘のある言い方だった。

胸が、ちくりと痛む。


 「……助けてほしい?」

問い返すと、少年は即座に首を振った。


 「助けられると、あとがしんどい」

 

 「期待されて、できなくて、また……」

言葉はそこで途切れた。


 「俺、役に立たないんだ」


 「戦えないし、魔法も失敗ばっかりで」

 長い間、同じ台詞を繰り返してきたような言い方だった。


 「じゃあ、何ならできるの?」


 「……火の番なら」


 「失敗しないから」


 完璧じゃなくていい。

失敗しないことだけを、必死に守ってきた答えだった。


 「それは、すごいわ」


 少年が顔を上げる。

そのときだった。

空気が、ひと呼吸ぶん、張りつめた。


 視界の端に光の粒が集まり、透明な板のようなものが浮かび上がる。


――《選択肢が発生しました》


――《介入する》


――《見守る》


 息子の部屋で、何度も見た形式。

この世界は、彼の逃げ場であり、思考の形そのものだった。


 《介入する》を選べば、分かっていた。

剣を持たせ、言葉を与え、前へ押し出す。

母がこれまでやってきたこと。

指が、伸びかけて、止まる。


 少年は待っていた。

助けではなく、答えでもなく、

自分で選ぶ時間を。


 「……あなたは、どうしたいの?」


少年は驚いたように顔を上げた。


 「逃げたい。でも……逃げたままなのも、嫌で」


それで十分だった。


 佐和子が小さく頷いた瞬間、空中の文字は音もなくほどけ、世界に溶けた。


 少年の足元の地面が、ほんの少しだけ固くなる。踏み出せば、崩れない程度に。


 少年は一歩、前に出た。


 その瞬間、佐和子の影が薄くなった。

風は彼女を避け、草は裾に触れず、足跡も残らない。


 (必要とされていない)

  

 胸がきしんだ。


 けれど、そこにあったのは恐怖より、静かな納得だった。


 少年はもう振り返らない。


 誰にも押されず、自分の判断で進もうとしている。


 「……行ってらっしゃい」

声は、届く必要がなかった。


 風の匂いが変わる。


 草と土の奥に、消毒液と金属の匂いが混じる。


――ピッ、ピッ。


 規則正しい音。

 何かを握っている感覚。

 冷たくて、細くて、確かな温度。


 「……母さん」

その呼び方だけが、はっきりしていた。


 目を開けると、白い天井。


 担架の硬さ。


 息子の手が、こちらを握り返している。

私は、ゆっくりと息を吐いた。

 

 助けなければ、と焦っていた日々が、少しだけ遠のく。


 この子の道は、この子のもの。


 それでも、振り返れば、消えない灯りはここにあった。

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