第2話 家政夫になりました

 目が覚める。寒気はない。どうやら熱は下がっているみたいだった。上半身を起こして枕脇に打ち捨てられていた自分のスマホの画面を見る。時刻は7:15。もう朝だ。


 ベッドから降りて廊下に出る。相変わらず廊下は散らかっている。リビングの明かりはついていた。リビングに入ると、いい香りが漂ってきた。おそらくコーヒーを挽いているのだろう。ガリガリという音がキッチンから聞こえてきていた。


「あっ、起きた?」


 泊めてくれた女性がキッチンから顔を出して、そう声を掛けてきた。


「おはようございます」

「おはよ。どう? 体調は」

「おかげさまですっかり良くなりました」

「よかった。昨日、死にそうな顔してたからねぇ」


 女性は苦笑いを浮かべながらキッチンから出てきた。手には湯気立っているカップが二つ握られている。そしてテーブルの上に溜まっていたゴミを手で床に払うと、カップを置きながら言った。


「ほら、座って座って。コーヒー、飲むでしょ?」

「はい、いただきます」


 俺は頷くと椅子に座った。女性は俺の対面に座る。


「ええと、キミ、名前はなんて言うの?」

「俺は柊修平ひいらぎしゅうへいって言います」

「柊くんね。私は新垣遥香にいがきはるかです。呼び方はなんでもいいわよ」

「それじゃあ新垣さんで」


 俺の言葉に新垣さんは苦笑いを浮かべた。


「せっかく下の名前で呼ぶのを許可したのに、真面目なのね」

「あっ、すみません」

「謝ることじゃないわよ。正直、下の名前で呼ぶような人じゃなくてよかったと思ってるわ」

「試したんですか?」

「そんな人聞きの悪いことを言わないで」


 俺の問いに新垣さんは頬を膨らませてそっぽを向いた。それからすぐに真面目な表情になって、俺の方を真っ直ぐ見つめてきた。


「……昨日、何があったのよ」


 聞かれると思っていた。しかしなんと答えたものか。バイトクビになって、家もいつの間にかなくなってて、これからどうすればいいか分かりません、って素直に伝えるべきか?


 いやいや、初対面の相手にそんな重い話をいきなりするもんじゃない。ここは適当に誤魔化して、煙に巻くのがいいだろう。俺はにへらと笑って言った。


「ちょっと恋人に振られちゃいまして」


 俺が言うと新垣さんの目が少し細まった気がした。


「それ、嘘でしょ」


 低い声で言われた。俺の心臓が跳ねる。


「いや、あの……」

「さしずめ、重たい話になっちゃうなぁ、とか気を遣って適当な嘘でもついたんでしょ?」

「…………はい」


 俺が観念して頷くと新垣さんはにっこりと笑った。


「やっぱり。柊くんって、他人の顔色窺って、その場の空気に合わせて嘘ついちゃうタイプじゃない?」

「……よく分かりましたね」

「ふふっ、お姉さんにはなんでもお見通しなのよ」


 少し茶化すように新垣さんは言った。でも、本当にそうかもと思ってしまった。新垣さんの指摘は、俺の本質を突いているように感じたのだ。


 俺は改めて、何で昨日、雨に打たれながら公園で項垂れていたのかを話した。新垣さんは感情豊かに、いちいちリアクションを取りながら聞いてくれた。新垣さんはとても聞き上手で、俺はすらすらと身の上話を話してしまった。


「なるほどねぇ……。それは大変だったねぇ」

「そうですね。これからどうすれば……」


 俺は無意識に目を伏せてそんなことを相談していた。新垣さんに相談しても迷惑なだけなのに。これも新垣さんが聞き上手というか、その包容力のおかげなのかもしれなかった。俺の相談を聞いて新垣さんは「う〜ん」と悩むように考え込んだ。しかしすぐに妙案が思いついたのか、ポンっと手を打つと言った。


「そうだ。柊くん、家事ってできる?」

「家事、ですか? まあ、一通りは……」


 少し、嫌な予感がした。俺はちらりとリビングの床を見やる。散らばったゴミの数々。今気がついたが、リビングの床にはTシャツやズボン、スカートに加えて、ブラジャーやパンツなどの下着類も雑多に転がっていた。ヨレヨレだけど、あれ、ほんとにちゃんと洗っているのだろうか?


 俺の言葉に新垣さんは目を輝かせた。


「それで、柊くんは、当分の雨風が凌げる場所と、その間の食費が浮けば、万々歳なのよね?」

「…………そうですね」

「じゃあ、決まりね。柊くん、私のうちで家政夫やろう」


 お願いではなかった。提案ともちょっと違った。ほとんど決定事項のように言われた。


「あの……拒否権は……」

「雨風が凌げなくて、食費も徐々に切り崩していって貯金が減っていくのを眺めるだけの生活が送りたいなら、私は別にそれで構わないのだけれど」


 俺は潔く頭を下げていた。


「やらせてください、お願いします」

「うむ。良かろう。許可いたす」


 茶化すように、腕を組んでそう言う新垣さんに、俺はがっくしと肩を落とすしかなかった。


「それじゃあ、私は8:00に仕事に行くから、私が仕事に行ってる間に、片付けはしといてね〜」


 新垣さんはひらひらと手を振りながらリビングを出ていった。俺は散らかっているリビングを眺めて、再び肩を落とすしかなった。



   ***



 新垣さんが仕事に行った後、俺は気合を入れ直してまずは廊下と向き合った。廊下には空になった段ボールやパンパンに詰められたゴミ袋が打ち捨てられていた。俺はまずはゴミ袋を抱えて、一階のゴミ捨て場と新垣さんの部屋を何度も往復した。それだけで廊下はスッキリした。


 それから俺は近くの100円ショップに向かうと、様々な掃除用品を買ってきた。合計で2020円。経費にと、新垣さんから少しのお金を貰っていたので、俺はそこからお金を出した。


 帰ってくると、俺は段ボールを折り畳み、纏めて、紐で縛り、またゴミ捨て場との間を何往復かした。


「よしっ。これで廊下は完璧だな」


 俺は自分の仕事に満足げに頷く。それからリビングのゴミも纏めて、衣服はきちんと折り畳んでクローゼットにしまい、キッチンのシンクに溜まっていた食器類も綺麗に洗った。その後、溜まっていた洗濯物も洗濯機を回して天日干しをし、窓を開けて換気もした。


 うん。だいぶ綺麗になったのではないだろうか。今の時刻は18:00。仕事に行く前、新垣さんは19:00には帰るかも〜と言っていたので、そろそろ夕食も作り始めようと考えていた。


 冷蔵庫を開く。


「……うわ」


 冷蔵庫の中は、見事に空っぽだった。野菜室の端の方に変色したレタスの切れ端が打ち捨てられているくらいだった。


「これは……。仕方がない。食料も買い出しに行くか」


 一人暮らしで俺はずっと自炊だった。コンビニ弁当とか俺にはちょっと高すぎた。全部自炊で済ませていた。まあ、働いていたのも、飲食のキッチンだったので、料理はそこそこ得意な方だと自負している。


 俺はスーパーで買い出しを済ませると、調理を始める。今回作るのはピーマンの肉詰めだ。美味しくて、野菜も同時に取れると言う優れものだ。俺がフライパンで炒めていると、ガチャっと玄関が開く音が聞こえてきて、どうやら新垣さんが帰ってきたみたいだった。

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