第8話

夜は、静かだった。

公園から戻ったあと、部屋の灯りを落とすと、世界が少し小さくなる。


彼の手が、ためらいがちに私の背に回った。

指先が触れる寸前、空気が一段階だけ重くなる。背中の皮膚が、先にそれを察して、じんわりと熱を帯びた。


触れる前に、ほんの一瞬だけ、間があった。

その間に、肩の力が抜けきらないまま、呼吸だけが深くなる。

期待と警戒が、同じ場所で息をしている。

…その間が、いちばん熱い。


「……緊張してる?」


声に出した瞬間、自分の喉も少し乾いていることに気づいた。

彼は、小さく息を吐いた。

胸が上下するのが、近すぎてよく分かる。


「あたりまえだろ……」


低い声が、わずかに震える。

喉の奥で引っかかるみたいな音がした。


「この姿で……誰かを抱くのは、初めてだ」


私は答えず、彼の胸元に額を預けた。毛越しに、確かな硬さと柔らかさが混ざっている。

鼓動が、思ったより速い。

自分の心臓と、少しずれて打っている。


「大丈夫だよ」


囁くと、その振動が彼の身体に伝わるのが分かる。彼の腕が、ゆっくりと私の背に回る。


力は弱い。

でも、逃がさない意志だけは、はっきりしている。

逃がさない強さじゃない。

壊さないように測っている力。

触れていい距離を、慎重に探る抱擁。

…距離が、なくなる。


胸と胸が触れ、呼吸がぶつかる。

吐息が、首元にかかって、肌がぞくりと反応する。

言葉より先に、温度が伝わる。

外気より、ずっと濃い熱が肌に伝わり、身体の輪郭が曖昧になっていく。


彼は、ぎこちなく、でも丁寧だった。

指が動くたびに、一度止まる。

そのたびに、私の背中の感覚が研ぎ澄まされる。

…まるで、触れることで何かを壊してしまわないか、自分の感触を、何度も確かめているみたいに。


「……あんたは」


耳元で、低く言う。吐息が直接、耳の奥を震わせる。


「全部、受け取る顔をするな……」


「だって」


私は、小さく笑う。その振動が、胸を通って彼に伝わる。


「あなたが、そうしてほしい顔をしてるから」


その瞬間、彼の呼吸が乱れた。腕の力が、一瞬だけ強くなる。

胸が、わずかに押し返される。


夜は、静かだった。

遠くの音はすべて薄れて、部屋の中には、体温と呼吸だけが残る。


触れ合うたびに、彼の動きから、迷いが少しずつ消えていく。

触れる位置が、少しずつ確かになる。

間の取り方が、変わっていく。


それは、獣でも、人でもない存在が、誰かの体温を知り、自分の重さを預けられることで…

初めて「ここにいる」と理解していくように。


「……可愛いやつだな」


かすれた声がした。

喉の奥から絞り出したみたいな音だった。


「もう……からかわないで……」


そう言いながら、私は離れなかった。

身体が、自然にそこを選んでいた。


その夜、彼は初めて、自分の身体を、醜いとは言わなかった。


触れられても、拒まれない。

触れ返しても、恐れられない。

その感覚が、皮膚の内側に残る。


ただ、この温度も、呼吸も、輪廻の中では消えてしまうかもしれない。


それでも……今ここで重なった感触だけは、

確かに、未来へ残る。


夜は、深く、やさしく、身体に染み込むように、続いていった。

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