第6話

彼は、しばらく黙っていた。

公園のベンチに座ったまま、視線を遠くに投げている。

今見ているのは、目の前の遊具でも、揺れる木々でもない。

もっと昔、もっと深い場所だ。


「……そうだな」


低い声が、ゆっくりと落ちてきた。

決心を、ひとつひとつ言葉に変えているような調子。


「少し、昔話をするか……」


それから、こちらを見ずに続ける。


「聞いてくれないか、お姉さん」


私は頷いた。喉が少し乾いていたけれど、言葉は要らなかった。

この先に、軽い話がないことは分かっていた。

それでも、逃げる気はなかった。


「……あれはまだ、俺が輪廻に落ちる前の話だ」


彼の声が、少し変わる。

いつもの彼よりも低く、ざらついていて、古い。時間を遡る音がした。


「俺は、貧しい農民だった」


風景が、言葉の向こうに立ち上がる。




「……ちっ。今年も不作か……」


乾いた畑を見下ろして、俺は吐き捨てた。

土は固く、指を差し込んでも、命の気配が薄い。

土地は痩せ、空は気まぐれで、汗を流しても、報われる年のほうが少なかった。


「お腹がすいた……」


背後で、妻が言った。責めるでも、怒るでもない。ただ、弱く、かすれた声だった。


「……待ってろ。食べ物を、持ってきてやる……」


その言葉が、最初の嘘だった。

…最初は、軽い気持ちだった。

ほんの少し、よそから拝借するだけ。

余っているものを、分けてもらうだけ。


ただ、盗みってのはな……麻薬みたいなもんだった。


簡単に、手に入っちまったんだ。

食べ物が。着るものが。金が。


俺は、生まれつき体が弱かった。

農業の仕事は、正直、向いていなかった。

鍬を振るえば息が切れ、日差しの下では、すぐに倒れそうになる。

だが……皮肉なことに、気づいちまったんだ。


他人をどう騙せばいいか。

どうすれば、疑われずに済むか。

その作戦を立てる才能だけは、異常なほど、冴えているってな。


人の癖。油断する瞬間。欲と恐怖の境目。

それが、手に取るように分かった。


騙して。秘密裏に奪って。時には、口を塞いで。

……気がついちまったらさ。

使うしか、ねぇだろ?


俺は馬鹿だった。ありとあらゆる悪事を働いた。妻のため。友人のため。

そんな言い訳を、何度も口にした。

だがな…罪を重ねた理由は、結局ひとつだ。


自分のためさ。

生きたい。楽をしたい。失いたくない。

…それだけだった。


彼の声が、ゆっくりと現在に戻る。

風が木の葉を揺らし、子どもの笑い声が遠くで弾ける。


「……だから、バチがあったんだろうな」


自嘲気味な笑い。

乾いていて、逃げ場がない。


「何度も生まれ変わって……何度も、同じところで立ち止まって……」


彼は、深く息を吐いた。長い時間を吐き出すみたいだった。


「反省を促すための、罰だ。そう考えるしか、なかった」


私は、何も言えなかった。慰めも、否定も、簡単には口にできない。

ただ、彼がその罪を軽く扱っていないことだけは、はっきりと分かった。


彼は、私を見ない。

まるで、裁かれるのを待つみたいに。

逃げも、弁解も、もうしないという姿勢だった。


私は、そっと口を開く。この告白のあとに、

何を言うべきかが、もう、胸の中で形を取り始めていた。

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