第5話
目を覚ましたとき、部屋が静かすぎた。
耳に入ってくるはずの、かすかな呼吸音も、窓の外を眺める気配もない。
朝の光だけが、淡々とカーテンの隙間から差し込んでいる。
「………? おはよ……?」
眠気の残る声が、部屋に溶けて消える。
返事はない。いつもなら、窓際から低い声が返ってくる時間だった。
休みの日の朝は決まって、彼は窓辺にいる。
人の姿のまま、あるいは猫の姿で、陽だまりを独占して。
私が起きると、少しだけ意地悪そうに笑って言うのだ。
……おはよう、寝坊助。
「……いないの……?」
布団から身を起こし、部屋を見回す。
カーテン。ソファ。キッチン。洗面所。
どこにも、いない。
胸の奥が、ひやりと冷えた。
理屈じゃない。
身体が先に、何かを察してしまった感覚がする。
「……いやな予感がする……」
理由はない。ただ、そう思った。
着替えもそこそこに、私は外へ飛び出した。
街に出ると、朝の音が一気に押し寄せる。
その中に、彼の気配だけが、ない。
「……みゅ……」
声が、自然と小さくなる。
「いない……いない……いない……」
猫の姿になった彼は、人の姿よりずっと身軽だ。高いところも、狭いところも、簡単に行ける。
探すのが大変なことは、最初から分かっていた。それでも、足は止まらない。
路地裏。河原。空き地。ゴミ捨て場。
視線を走らせ、名前を呼ぶ。
何度も。
「……どこ……?」
息が上がる。胸が苦しい。
「……どこぉ……?」
気づけば、街の端まで来ていた。
見慣れた景色が、少しずつ減っていく。
そのとき、ふと、頭に浮かぶ。
「……そうだ……」
最初に会った場所。
「……あの、公園……」
ブランコのある、小さな公園。
雨の日に、濡れて震えていた猫を拾った場所。
半ば祈るような気持ちで、そこへ向かう。
「……みゅっっ……!!?」
視界の端で、揺れる影が見えた。
「……!」
ブランコに、彼は腰掛けていた。
今は猫の姿ではなく、人の形をして。
鎖を軽く蹴って、ゆっくり、ゆっくり揺れている。
「……いた……」
力が抜けて、思わず声が震えた。
「ねぇ…! どこに行ってたの……?
探したんだよ……帰ろっっ……」
近づく私を見て、彼は少し驚いたように目を細めた。
その表情が、どこか遠い。
「……なんだ。お姉さんか……」
声は、いつもより低い。
「……いや、俺はもう帰らない」
言葉が、理解できなかった。
「……え……?」
頭の中で、意味が結びつかない。
「何、言ってるの……?意味が分からない……」
彼は、ブランコの揺れを止めた。
足先が地面に触れ、静止する。
「……近づいているのさ」
視線が、足元に落ちる。
ブランコがぎしぎしと鈍い音を立てている。
「寿命がな……」
「寿命って……」
胸が、嫌な音を立てる。心臓が、強く打つ。
「どこか、体調が悪いの……?」
彼は、苦笑した。
「……好きな人に、死に顔を見られたくないのさ」
その言葉が、胸に刺さる。
息が、一瞬詰まる。
「……察してくれ。猫は、飼い主から離れて……死に場所を探すもんさ……」
「……っ」
私は、首を振った。否定するしかなかった。
「誤魔化さないでっっ……」
声が、少し荒れる。
「……ちゃんと話して……お願いだから……」
しばらくの沈黙。ブランコの鎖が、風に揺れて鳴る。彼は、ようやくこちらを見る。
「……俺が化け猫だという話は、前にしたかと思うが……」
低く、淡々と話す。
「化け猫はな……生まれ変わるのさ」
言葉を、噛みしめるように彼は続けた。
「記憶を持ったまま…終わらない輪廻を生きる……何度も、何度も……繰り返す……」
頭が、追いつかない。世界が、少しずつずれていく。
「……え……」
しばらくして、私は言った。
「……じゃあ……あなたって…何歳なの…?」
思わず、変な方向に思考が飛ぶ。
「…めっちゃ年の差恋愛してたってこと…?」
彼は、ほんの少し笑った。
「ふっ……」
いつもの、困ったような笑い方。
「……お姉さん……君は……相変わらずだな」
その笑顔の奥に、どれだけの生と別れが積もっているのか。
私は、知らない。
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