第4話

「ただいま~」


ドアを閉めると、外の音が一気に遠ざかる。

車の走行音も、人の気配も、建物のざわめきも、すべてが扉の向こう側に押し出される。


そんな部屋の静けさを遮るように、彼の声が返ってくる。


「あぁ、おかえり」


窓辺からこちらを見るその姿を見ただけで、胸の奥が柔らかくなった。

仕事の役割も、昼間の会話も、同僚の視線も、全部が少しずつ遠くなる。


「……会いたかった……」


靴を脱ぐより先に、私は彼に近づく。

距離を測ることもしない。

帰る場所だと、身体が先に分かっている。


「ただいまの、ぎゅ、しよ……」


言い切る前に、もう腕が回っていた。

毛に顔が埋もれ、視界が暗くなる。


「言っている前に、抱きついているじゃないか……」


呆れたような声が聞こえる。

でも、腕は緩まない。

受け止める重さを、ちゃんと引き受けてくれている。


「ん……いい匂い……」


顔を埋めると、柔らかな毛の感触と、ほんのり温い空気。

外の冷えを連れて帰った身体が、暖かくなっていく。


「みゅ、安心する…お日様の匂いがする」


「あんたも、いい匂いがするぜ?」


低く笑って、彼は言った。


「頑張った人間の匂いだ……」


「ちょっ……」


急に恥ずかしくなって、身じろぎする。

まだ、お風呂に入っていないのに。


「そういうの、やめて……」


「なんだ?」


彼は少しだけ腕に力を込める。逃がさない程度の、穏やかな圧。


「先に誘ってきたくせに……」


「もぅ……意地悪……」


そのまま、しばらく何も言わずに立っていた。

呼吸のリズムが重なり、部屋の時間がゆっくりになる。

時計の針だけが、淡々と、ここが現実だと告げている。


彼が、ふと、口を開いた。


「なぁ、あんた……」


声の調子が、少し変わった。

そこには冗談でも、からかいでもない響きがあって、私は思わず彼を見上げた。


「出会った日のことを、覚えているかい?」


「うん」


私は即答した。考える間もなく、記憶が浮かぶ。


「覚えてるよ?雨に打たれてる捨て猫さんを拾ったんだよ~?」


そのときのことは、今でもはっきり思い出せる。濡れた毛、細い体、警戒した目…野良猫そのものの姿だった。

放っておけず、部屋に連れてきたのだ。


「まさか、こんなに成長するとは思ってなかったけどっっ」


軽く笑うと、彼は視線を逸らした。

窓の外に、何かを探すように。


「……猫の形をしている人間が、喋っていて……おかしいとは思わなかったのかい?」


「え???」


思わず声が上ずる。


「今さら!?そりゃ最初はびっくりしたけど……」


言いかけて、止まる。

彼は、冗談を許さない顔をしていた。


「違う」

低い声がした。冗長さのない、真剣な音。


「よく……こんなに醜い"化け猫"に、欲情できるな?」


「え!?」


一瞬、頭が追いつかない。

言葉の意味が、遅れて胸に落ちる。


「え、あなた…化け猫だったの~?

妖怪だったんだ!?どおりで~」


拍子抜けしたように言うと、彼は目を見開いた。想定外、という顔だ。


「……相変わらずだな、あんた……」


呆れと、困惑と、ほんの少しの救いが混ざった声がする。

私は、彼の胸元に手を当てる。

毛越しに伝わる、確かな鼓動。

生きている証拠のようなリズム。


「醜いとか、よく分かんないけどさ」


ゆっくり、言葉を選ぶ。彼のふわふわした毛を指で弄びながら呟いた。


「あなたはあなたでしょ?」


彼は何も答えない。

ただ、私を見下ろしている。その瞳の奥に浮かぶ色について、このときはまだ、深く考えていなかった。

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