第3話
昼休みのオフィスは、少しだけざわついている。午前中の張りつめた空気が抜けきらないまま、雑音だけが増えていく時間帯だ。
私はデスクに肘をついて、スマホの画面を見下ろしていた。
画面の明るさが、昼の照明と溶け合って、少し白っぽく見える。
「~♪ 可愛いなぁ~」
声に出してから、はっとする。
思っていた以上に、音が外に漏れていた。
すぐに口を押さえたけれど、もう遅かったらしい。
「……?」
隣の席の同僚が、首を傾げてこちらを見ている。視線が合って、逃げ場がなくなる。
「彼氏ですか?スマホ見て、ニヤニヤして~」
同僚はからかうような声でこちらを振り返った。悪意はない。ただの昼休みの軽口だ。
「い、いや……彼氏というか、なんというか……っっ」
言葉に詰まる。正直に説明しようとして、途中でやめた。
…どう説明すればいいのか、自分でも分からない。
「もう! 隠さなくていいんですよ~??
惚気けちゃってくださいよ~」
同僚は軽い調子の声で続ける。
踏み込んでくるけれど、深追いはしない、絶妙な距離感だった。
「いや、その……なんというか……推し、みたいなものなので……っっ」
言い切ると、少しだけ胸が苦しくなる。
「推し?」
同僚は一瞬考えてから、少しだけ目を細めた。
興味と疑問が、半分ずつ混じった表情。
「ふ~ん……?」
短い間の後、思いついたように、こう言った。
「なんというか……あなたって、変わっていますよね?」
胸が、わずかに跳ねる。
軽い言葉なのに、芯を突かれた気がする。
「自分のことを、あまり深く話さないというか。常に、人に対して距離がある気がする」
「……ゔっ」
図星だった。反論も否定も浮かばない。
代わりに、喉の奥が詰まる。
「……すみません……」
反射的に謝ると、同僚は苦笑した。
「別に、謝らなくていいんですよ?」
声のトーンが、少し柔らかくなる。
責めるつもりがないことが、はっきり分かる。
「ただ……最近、表情が柔らかくなったから。
それが気になっただけです」
私は、スマホの画面を伏せる。ガラスに映っていた光が消える。
そこには、さっきまで見ていた彼の後ろ姿が残っている。窓辺に座る、あの静かな背中。
「……その“推し”とやらは」
同僚は、少しだけ声を落とした。
周囲の雑音に紛れさせるように。
「どんな魔法をかけたんですかね?あなたに」
答えは、すぐには出なかった。
魔法なんて、かけられていない。
ただ、何者でもない自分でいていい場所が、ひとつ増えただけだ。
「……秘密です」
そう言うと、同僚は楽しそうに笑った。
「そういうところですよ」
からかう声の向こうで、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
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