第2話

彼が、今日も窓辺に座っている。

街を見下ろすその背中は、人間の形をしているのに、どこか獣の影を引きずっていた。


肩の線がわずかに丸く、重心が低い。

じっとしているはずなのに、いつでも跳び出せそうな気配だけが残っている。


毛は黒く、少し長い。

手入れをすればもっと整うはずなのに、本人はそれを好まない。

光に当たると艶が出るだろうな、と思う。

たぶん本人も分かっていて、あえて放っているのだろうか。

目は猫のままで、ぎょろりとしていて、感情を隠すのが下手だ。


「……そんなに見るな」


振り返らずに言う声は低く、少し掠れている。

責めるでも、咎めるでもない。

ただ、気づいている、というだけの調子。


「みゅっ!?見てないよっ」


言いながら、慌てて誤魔化す。

視線は、ずっとそこに置いたままだ。


「…嘘だな」


彼はふっと笑い、小さく息を吐いた。

窓ガラスに、かすかに白い曇りが残る。

沈黙が、部屋の空気をやわらかくする。


「仕事に行かないと……行ってきます」


しばらく見つめていたかったが、出勤時間だ。

私は声に出すことで、現実に戻そうとする。


「あぁ。行ってらっしゃい。気をつけてな」


いつものやり取り。変わらないはずの一言。

…それなのに、今日は少しだけ、離れがたい。


ドアノブに手をかけて、止まる。


「……こっち向いて?」


言い終わる前に、彼の背中がぴくりと動く。

耳が、わずかに揺れた。


「……っ!?」


振り返った顔は、少し驚いたまま固まっている。

反応が遅れるところも、隠せないところも、猫のままだ。

その目が、こちらを真っ直ぐ捉える。

私は一歩近づく。距離が縮むにつれて、彼の匂いがふっと近くなる。

外の空気と、部屋の匂いが混ざった、落ち着く匂い。


「ん……」


短い音。唇に触れたのは、ほんの一瞬の温度だけ。確かめる前に、もう離れている。


「……んっ…ちゅ。行ってらっしゃいの、ちゅう、だよ」


離れてから、思い出したみたいに笑う。

軽く、誤魔化すように。


「えへへ……充電完了。じゃあねっ」


軽く手を振ると、彼は少し遅れて視線を逸らした。

耳の向きが、ほんの少し変わる。


「……全く。困ったお姉さんだ」


声は呆れているのに、否定はしない。

距離を詰めたことも、触れたことも、なかったことにはしない。

その曖昧さが、胸の奥に残る。


ドアを閉める直前、もう一度だけ振り返る。

彼は窓辺に戻っていた。

さっきと同じ姿勢で、街を見ている。

けれど、背中の緊張は、ほんの少しだけ緩んでいるように感じられた。


この部屋に戻れば、彼はそこにいる。

そう思えるだけで、外へ出る勇気が、ほんの少し増すのだった。

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