幸福な朝の欺瞞

 目を開けると、硝煙の匂いはコーヒーの香りに変わっていた。


 朝日がレースのカーテンを透かし、隣で妻が寝息を立てている。


「……あなた?」


 妻が目を覚まし、不満げに眉を寄せる。「うなされてたわよ」


 俺は跳ね起き、自分の体を確かめる。汗。心臓の早鐘。ここは現実だ。平和な寝室。カレンダーには俺の誕生日を示す印がついている。


「コーヒー、淹れたわよ」


 妻がカップを差し出す。いつもの安売りブレンド。だが、口に含んだ瞬間、舌の奥に鉄の味が広がった。血の味だ。


 すんでのところで吐き出すのをこらえた。


「変な顔ね。」

 

妻が笑う。


「今日、何の日か覚えてる?」


 彼女は棚からクラッカーを取り出し、紐を引く。


 パン、という破裂音。


 その音が、あの部屋の銃声と完全に重なった。


 舞い散る銀色の紙吹雪が、飛び散る脳漿に見える。


 俺は反射的に耳を塞ぎ、うずくまった。


「やめろ!」


「……どうしたの?」


 妻の声が遠い。顔を上げると、彼女の表情が凍りついている。いや、違う。彼女の顔が、ノイズの走った映像のように崩れかけている。


 それはまるで、砂場の山が崩壊するように。


 何か積み上げていたものが、何かが崩れ落ちる気がした。


 妻の指先。人差し指に小さなささくれがある。その指が、夢の中の少女の指と重なる。そして、あの記憶の中の――引き金を引いた俺の指とも。


「気づくのが早いわ」


 妻の口調であるのに、妻の声が聞こえない。


 妻の口から、バディの声がした。


 部屋が音を立てて剥がれ落ちる。壁紙が焼け焦げ、窓の青空が割れ、その向こうから暗黒のコンクリートが露出する。


 コーヒーの湯気は硝煙へ。クラッカーの紙吹雪は薬莢へ。


 俺は理解した。この幸福な朝こそが、脳が見せている防衛本能の産物なのだと。現実の俺は、まだあの「暗夜行路」の中にいる。あるいは――もっと酷い場所に。

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硝煙は夢に漂わぬ @andro_dame

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