あの先輩がいる

千古不易

珈琲に誘われて


 日本――夏――某日。

 喫茶店の定位置。


 目の前に『あの先輩』がいる。


 何時も独りで窓辺にいて、凄く平坦な目で景色を眺めている人。手元にはその時その時――講義の為のノートパソコン、それか絶滅危惧されてるガラケー、珍しいのだと球体関節人形ビスクドールとか――が添えられている。


 窓の外から蝉の声もする。近くに植えられた木に引っ付いているのか、店内の静かなBGMに紛れていた。


 先輩を見れば、今日は珍妙な物を手にはしてない。先輩の黒い瞳が動いた。目が合って、ちょっと。


「あれ、君はなにか用があるのかな。僕には当然、君に用はないけれどね」


 冷たくあしらう声は夏の到来に逆らうようだった。先輩らしくて、だからこそ強気に。


「忘れたんですかー? ほら、後輩のー! ほら、あのっ!」


「ふうん……そうだっけ? まあ――僕が知らないだけで、他の誰かには当たり前って奴はままある事だし――別に良いや。で、なに、どうしたの? 僕は金欠だから奢れないよ」


 今日も四人掛けの席、端っこ。机には見慣れぬ鍵、アクセサリーは流行りのアニメマスコットだ。あの先輩にしては珍しくて、ちょっと引っ掛かる。


「それってなんのカギなんです?」


「なにかを開ける道具だね、扉に用いられる場合が多いかな?」


 手にして振った鍵はスイッチ付き。車の鍵だ。アクセサリーが見た目の大半を隠していて鍵ってだけしか分からなかっただけ、とも思って。別に文句を言うような事でもないかと改める。つい先輩の言動に引っ張られそうになったが、あの先輩だ。


 悪気もないし悪意もなくて、馬鹿にしたり茶化したりって風でもない。聞かれたから答えた、ような。


「先輩はなにしてるんです? 今日の講義とかもうないんです?」


 先輩は手にしていた鍵に指を引っ掛け、ちゃらちゃらと回す。アクセサリーの重さからどうにも拙い。窓辺をちらっと伺って。


「――っ」


 あの先輩が、薄く笑った。つい、驚いた。


「――講義より、ちょっとだけ優先してるんだよね。そうだな……知らべ物をしたくてさ。まあ、僕には関係がないとも言えるし関係がないとも言い切れないんだよね」


「は、はあ。そ、そうなんです? 先輩ってそんなの関係がなさそーなImageでしたけど」


「なんでそこだけ矢鱈に流暢なのか気になるけど、うん、そうだね。普通はそうなんだよね」


「俗世には興味がないのだと、なんと言うんですっけ? Noblesse oblige《ノブレス・オブリージュ》みたいな?」


「高貴なる身分のものには相応の責務があるって話なら、僕はそんなんじゃないけどね」


「そんな話なんですっけ。でも、いま先輩がやろうとしているのは……そう言った義務感なんですよね?」


 さらりと先輩の対面に腰を休めて、ベルを鳴らす。先輩は手にしていた鍵を置いて、飽きたように窓辺に姿勢が固定した。


「雑用係には『当然』器具の保守点検は含まれるべきだし、飼育係は『当たり前』に動植物への責任は負わなくちゃならないし、日直係は『明らか』に毎日ってのを欠かしちゃならないけどね――でも、僕はそんなんじゃあないかな?」


「あ、珈琲で――え? なにか言いました?」


 店員に注文して面倒そうな台詞を流す。夏なのに湯気の上がる珈琲、砂糖やミルクは追加しないのは想像通りだけど先輩のは今も熱そうだから来たばかりなのは分かる。五分前後だと思う。


「いいや、別に。それで? なにしに来たの? 暇なの?」


「暇ですね、めっちゃ暇です。なんで、先輩はズバリなにをしているのかなって?」


「私用だね、君ってそんなにPrivateに侵食する感じなの?」


「先輩との仲じゃないですかー。それとも話せないような事をするんですか?」


「……うーん。まあ、そう言う事にはしてあげるけど。話せないような事、なんて言われたら難しいな……多分、法律は破るからね」


「なにするつもりなんですか」


「言ったよ、調べ物だって。それとも君は正義観溢れちゃう子なの? いいね、そのままでいたら? どうしても気になるなら一緒に行ってみるのもありじゃないかな。そんなには遠くないしさ」


「えー、でもー。なんでそんなOutlaw風味なんですー? 解釈違いなんですけどー」


「勝手に期待した君の落ち度だよ、或いは解釈なんて押し付けるものであるって説もあるけど。僕としては他人の評価が全てな気はするし、同時に当てにならない要因でもあるかなって思ったりするんだよね」


「なに。え、哲学?」


「いいや、こんな解釈もあるかなって話。それにこれは苦言だね。後は諦観も含むかな。どうせ、僕は当てにはならないって確認でもある――要するに、君が思う通りで良いって話だ」


「はあ。先輩っぽい」


「ふうん。そう。そりゃどうも」


「先輩はー……暇な時ってどうしてます?」


「うーん。大体さ、大方はね、二進も三進も行かなくて遣る方ないままに詰んで、そして一頻り考えて――後悔ばかりかな」


「後悔ばかり、ですか……」


「人間ってさ、情報処理する場合内的要因に影響を受けちゃうもんらしいよ。『日常』から離れた衝撃は、次に同じ『失敗』をしたくねえから、もう経験しないように、脳は合理的に理性的に情報を処理するものだから」


「えっとぉ、そうなると、ずっと憂鬱なんです? 楽しい時は、ほら、なんか早く感じません? 誰かと一緒とかも」


「気が紛れる? 正に、気の迷いって奴さ。楽しい時とか、それはあれかな。脳が合理的に『ストレスリスク』がないと判断して、細部まで情報処理をしてないからだろうな。記憶に残り難いのは処理の違いだしね、『概略』か『詳細』の差異だよ。僕は基本後者なだけ、楽しい時も健やかなる時もって感じだ」


「先輩っぽい」


「あっそう。そんな事を考える君こそ――どっちなんだろうね?」


 そう言って立ち上がった。先輩は飲み干してない珈琲をそのままに、鍵とガラケーをポケットに押し込んでいる。まさかな、とは思った。


「いって、らっしゃいです……?」


 すたすた歩いている。恐らく単に癖だから貴重品を手にしただけだろうけど。


「……、……」


 一応、珈琲が来る間は待つしかないし、先輩の行方を探す。お花摘みかな。


「……、……?」


 用を足しに行ったのだと思ったのに、どう見てもさっきの方向は出口だった。会計の側には戸はなかった気もする。


 え。いや。まさか。


 からんころん。先輩が去った音色だった。


 あんの先輩やりやがった!


「ちょ、先輩置いてかないでくださいよぉっ!」


 少ない荷物を手に、慌てて立ち上がった。


――――。


――。


 喫茶店の会計を済ませて駐車場に着いた。足早だったからちょっと息苦しい。


 それに飲めもしなかった珈琲を二つも払った恨み言を先輩に言ってやりたい。


 やりたかった気持ちは、駐車場で異彩を放つ乗用車に圧倒されて疑問が勝る。


「なんですかこれ、原型が分からないんですけど。丸い……のに可愛くない」


 全体は丸い。軽のような可愛い外形が、なにか途轍もない悪魔が印を付けたように魔改造されている。ぱっと見て、可笑しい。


「一応、僕の車だね。二人乗りなんだよね、あとちょっと荷物は入るかな、子供位ならさ」


 駐車場で鎮座、ではなくて降臨する車の扉を開けながら先輩は言った。そもそも、やっぱり可笑しい。あの先輩は徒歩だったような、車を本当に持っているのも意外。でも当たり前に乗り込もうとしている。


「いや、四人乗りだったんじゃ……?」


 内装は驚く程に質素。飾りがない。なにか金属のフレームが入っている。後部座席があっただろう場所には、なにか触ったら手が吹き飛びそうな機械が剥き出しだ。


「それはV型六気筒と知り合いが作ったターボだね、積載余裕がないからさ」


「エンジン……え、法律は……」


 座席は二つ、でも布じゃない。なにか金属っぽいしプラスチックっぽい。硬そう、可愛くない。


「座席……、あの」


「ああ、FRPの特注だね。シートベルトはあるにはあるからさ。乗らないの?」


 先輩は剥き出しの、普通じゃない独特なハンドルとギアシフトを触って。尻込みする姿に催促。仕方なく、座席に座る。硬い、痛い。あ、本当にシートベルトある。


「痛くないんですか?」


「痛いに決まってんだろ」


「趣味なんですよね?」


「いいや、これは友人から押し付けられたんだよね。燃費が悪いからあんまり乗れないのもあって、大体は駐車場で永眠してるかな。久し振りなんだよな、運転……」


 先輩は鍵を押し込み、回す前に。


「燃費が悪いから、後にポリタンクあるだろ? 多分これから向かったら一回は使うかも知れない。その時はごめんけど降りてね、給油口君の下にあるから」


「え、あはい。いや、遠出じゃないですかっ!」


「いや、だから燃費がさ。タイヤのスペアはないから、そこは祈って欲しいな……。あー、それと……あんまり穏やかに走れないんだよね、吸気で冷却を補っててさ」


「……はい?」


 先輩は澄ました顔で抗議を無視して、キーを回した。


 爆音が身体を揺らして。目眩がする音が。肌がびりびり感電する。あ、これ正気じゃない。


――。


――――。


 某寂れた山道、曲がり道。昼間に響く絶叫。


 スキール音。一部抜粋する。


「先輩先輩先輩先輩先輩ッ! 崖崖崖崖崖ッ!」


 車体が傾く。景色が雪崩れる。爆風が山を切り開いてる。


「いやいや、曲がれるよ。計算はしてるからさ、一応ね。でもさ考え方じゃないかな? 八十km越えで登山する経験ってのも悪くないよね、貴重だと思う。確か、次のコーナーは六十度の三回だっけ? あれ、四だったか……?」


 ハンドルを忙しなく回して。途中、そうだ、途中。赤色の回転灯を当たり前にぶっ千切ってから先輩は頭が可笑しい。シフトレバーを流れるように倒す度に、知りもしない炸裂音がする。


 エンジンとかターボとか良く分からない知らない知りたくない。炸裂音がする、銃声みたいな。銃みたいな音がして。ちらっと見たミラーに火花。


「燃えてませんかッ!」


「バックファイヤーだね、ギアが軽いから切り替えが大変なんだよなぁ。しーちゃんの悪い所だ、普段遣いって頭にないんだろうな。あ、もう暫くすれば目的地だよ、多分」


「な、んでッ! 多分なん、ですうぐぅッ!?」


 先輩がハンドルをぶん殴るように回せば身体が傾く。尻が浮いて頭を天井に打ち付けた。めっちゃ痛い。駄目だ、この人。やばい。やば。


「いやほら、僕ガラケーじゃん? 確認した地図がさ、昔のなんだよね」


「し、死ぬッ!」


「はは、面白いねそれ。それはないかな、僕としても望んでないし。おっとッ! 九十度は知らないなぁッ! 二回もッ!? 地図のクソヤロォ騙したなッ!」


 『あの先輩』が雄叫び、スキール音と悲鳴が山に響いた。多分、どっちも同じ音だった。それとクソヤロウは先輩だ。


――――。


――。


――。


 小一時間。そう、一時間位。距離はあったのに。


 警察を振り切って、山を抜け、気付いたら目的地だ。昼下がりの森中。寂れた山道の路肩に適当に停車した。先輩は三十分は様子を伺い、特になにもない顔を向けて来ていた。


「……すみません、ちょっと良くなりました」


「別に気にしてないから、感謝は要らないかな」


 先輩はガラケーを手に、なにやらポチポチ。顔色を伺って待っていたのは、熊が出る山道だから、との事。無駄に恐怖を煽るのは態とじゃない、と思う。話したままなんだろう、ガラケーを持つ反対には催涙スプレーっぽい缶。割りと先輩は気配りが出来ないのに用意が周到だ。


 エチケット袋もあったし。ペットボトルの水も。いやそうなると気配りは出来ているのかも。


「それで、あの神社ですか?」


「……、……」


 先輩に見られた、凄い無機質な目玉。気持ちがなにもない、目の前の事象を観察する目。それはモルモットに向ける目でもないし、それにそう、人に向けるべき目でもなかった。でも、次にはガラケーをパタンと折り畳み肩を竦めて。


 ポケットに押し込むでもなく、歩き出した。


 ペットボトルの水を一口含み、後に続く。


「調べ物ってなんのです? 潰れちゃって誰もいないですけど」


「そうだね、都会ではないにしろ田舎でもない、半端な此処には滅多に人は来ないだろうさ。それこそ偶々、とか、僕達みたいに目的がないとね」


 草木を踏み締めて、先輩は進む。


「……、そうですね」


 草木の生い茂る道なき道。暫くすると人が丁度一人歩けるように草木が倒れた道が出て来た。それに従う先輩を避けて奥を見れば崩れた社らしき木造建築が見えた。


「獣道ですかね、熊とか」


「さてどうかな、正体は猪かもね。獣道は大概そいつが由来だし」


「……そうですかぁ」


 気分がちょっと晴れない。


「――おっと。足元気を付けてね、鳥居かな、見えなかったよ」


「あ、はい。ありがとうございます」


「やっぱり、蚊ばかりだな……」


 なんて先輩は言いつつ、右手のスプレー缶を振り撒いて。あれは催涙スプレーではなく、殺虫剤だった。確かに虫は多い。町中よりもずっと蝉の声は多くて、大きい。


 じゃわじゃわとしている。じんわりと汗は滲むけど、生い茂っているからか木陰を広げていて寒さも感じていた。誰も管理してない神社の鳥居を跨いでちょっと前に進むと、足元の感触が硬くなった。


 硬くなった、より確りとしたかも知れない。草木の隙間から石畳が見えた。さっきまでは草木が積み重なった道って感じだった。


「先輩はなにを調べに?」


「趣味ではないし、加えて義務じゃあない。有り体に述べれば流されたとも言えるけど、僕は今回ばかりは珍しく自ら此処に来てはいるよね」


「はあ、そうですね……? それで、答えなんですけど……?」


「珍しいと言えばさ。歴史的な建造話はないけど、こうして誰からも忘れられちゃう宗教施設って珍しくない訳で。でも、こうした宗教施設ってそうはないんじゃないかな? 物珍しさはあるって話ね」


 宗教施設呼ばわりはなんだか罰当たりな気がする。先輩は崩れた社に到着すると、青々とした苔を見て、ガラケーを出してまたポチポチ。


「先輩どうですか? なにかありました?」


「いいや、なにも。賽銭箱とかワンちゃん漁れないかなって思ったけど、倒壊した本殿の下っぽい。中に入るのは、危ないからやめとこうかな」


「そうですね、じゃあ、どうします? あ、あっちに絵馬っぽいの落ちてますよ」


 先輩を置いて左側に進もうとすると。がしっと手首を掴まれた。振り向けば、ガラケーで先を指している。


「な、なんで――」


「静かに」


 鼻先でガラケーを立て、先輩は再度顎で先を示した。ゆっくり見ると、散らばった絵馬の近くに小さな動物。縞々な、ちっさな動物だ。


「ウリ坊、ウリ坊ですよっ、かわいい……!」


「すてい。すてい。親が近くにいるだろうし、あんまり刺激しないように反対側に行こうか」


「えー……なにもなさそうですけど?」


 反対は草木ばかり。腰丈もあるから掻き分けるのも大変だ。でも、これまた道みたいに草木が倒れた通路があった。


「ほら、獣道あるし。道って言えば全ての道はローマに通じるらしいね――海はどうすんだろうな――ああそっか、陸海空に『路』はあるし間違いじゃあないのか、知らんけど」


 先輩はそうして下らない事を垂流しながらガラケーをポチポチしながら進んで、途中で立ち止まって辺りを見渡して、屈んで、立ち上がって、また歩き出した。


「そう言えば神社と寺の違いって分かってる?」


「宗教が違いますよね?」


「それもそうだね」


「先輩は、……どうして調べるんです?」


「聞き間違いか記憶違いか正直分からないけれど――さっき言ったよね」


「でも、それだと喫茶店で言ってた嫌々じゃ、ないじゃないですか?」


「あー。確かに。矛盾してたね、うんそれは間違ってない。良い感じに合理的だ、だからって正しいかは別なんだけど」


「ええ、でも先輩はー、Noblesse obligeでやってるんでしょ?」


 草木に服が擦れる。折角買ったばかりなのに。先輩は気にしたような風体ではない。見た感じ高そうな服なのに。金ピカ模様のアロハシャツなんて趣味が悪いけど、これがまた先輩は姿が決まっているから質が悪い。背の高さと無駄のない体格、確りと値の張る代物に負けてない。


 そう言えば登山倶楽部にも一時期在籍してたっけ、だから用意が良いのかな。それこそ先輩っぽく言い直すなら、知らんけど、だけど。


「義務感でもなくて、嫌々ではあって、趣味でもある……? ナゾナゾ?」


 先輩はガラケーをポチポチしつつ、顔を上げた。


「君って矛盾する事を誤りだと考えてないかな」


「でも、矛盾してますよ? ごっつんこです」


 先輩はガラケーを畳む。顎を少し上げ、思案していた。思い付いかないのか蝉の鳴き声を一瞥してから、気持ち分、沈黙。


「――君って、『正しくて間違い』が矛盾しないのを知らないんだね?」


 感情のない、でも特別に冷たくない声。山とか谷のない平坦な声だ。表情は、あんまり動いてない。喫茶店の定位置で窓辺に座ってたみたいな顔だ。本当に表情が乏しい人だった。


「えっと、ズバリ哲学?」


「僕から言わせれば……割り切れる方が異常なんだけど――例えばそうだな、君は好きだよ嫌いだよを矛盾と捉える子なんだろうけど。それはそれ、これはこれとも言うだろう? 況してや、矛盾したとして必ずしも間違いにはならないし」


 先輩は酷く普通だ。小難しくて、ちょっと皮肉っぽい。


「はぁ」


 適当に頷く。ほんと、裏が読めないから。正直な所、先輩の話はなにが言いたいのか分かんない。


 先輩らしさを犇々と感じる、これがあの先輩か、と。


 夏の鮮やかさに負けじとイカつい装いに反し振る舞いや雰囲気は儚くて、言動は冷たいし配慮はないが思慮はあるみたい。気配りはしないのに根回しだけは丁寧で、物腰が柔らかいのにどうにも喧嘩腰だ。


「先輩って……頭を下げながら中指立ててる、みたいっすね」


 こう、めちゃ思う、先輩は矛盾してる。


「面白い例えだけれど、僕に反骨精神はないかな。あるのは決まって後悔だよ、きっと何時もね」


 と、先輩は近寄って来た名も知らない虫にスプレーを向ける。蛾だとは思う、茶色の羽をした。それにスプレーを撒いた。霧に触れたら蛾は数秒もせず、くるくると回って草木に消えて行った。


「なにも、スプレーしなくても。蛾はよくないです?」


「へえ、蚊は良いんだね」


「それとこれは……ちが、あ、もしかして、矛盾してるってこと?」


「矛盾ね、それはどうだろうな。正しさは据えた目線と置き方に起因するものだけどね。君は蛾は否とし、蚊は可とした。これは生物に関しての不文律を問えば矛盾するだろうけれど、それは同時に、君が蚊を殺しても良いと判断していた事を裏付ける話でもある」


 先輩は落ちた蛾を探すような目をして、ゆっくり瞬いた。


「……、はあ、なるほど……」


 言葉の意味を分かろうとして、目線を先輩と同じように落とす。そうすると、頭の上から声がした。


「――――」


「え」


 聴き取れなかった。先輩を見る。然し当の本人は踵を返して、身丈位はある草木を割っていた。足を差し込んで、ちょっとすると獣道。先は、倒木みたいなものが重なっていた。丁度腰丈はあるだろうか。


 先輩はその周りをぐるりと歩いて、倒木に凭れた。


「うーんと、三日。もしかして、とか、万が一ってのを考えてもみた。結果はそうだな、後になって悔いるだけ」


「…………はい?」


 ガラケーをポケットに、手には鍵。流行りのアニメマスコットの付いた奴。先輩は嘆息を一つ、空を見上げた。白い入道雲が木陰の隙間から見えた。鮮やかな青と、意識しないと騒々しい蝉も意識の外にあったのを思い出した。


 気付いたら、心地良い風が吹いている。木のざわめきと、蝉と、鼻を擽った自然の匂い。腐葉土は独特だ、香しいものじゃないのにどうしてか悪くない気持ちにさせる。


 ガチャガチャ、金属とかの音。先輩。そう、時を忘れさせた鮮やかさを突き放した冷たい音。鍵を手で回す音。


「僕の後輩からの貰い物なんだよね」


「そう、なんですね」


「ああ、なんだっけ。流行りのなにか、らしいよ。みるきぃ侍なんとかっての?」


「あ、知ってます、有名です。流行り、ですね。あ、でも先輩も有名ですよー?」


「へえ、そうなんだ。君は、どんな噂を耳にしたのかな? 僕って噂が独り歩きしてばっかりで、中々気に障るからさ」


 トゲ。


「……。アイスティーを、ジョッキで沢山飲んだとか……?」


「あー、あったね、それは事実。普通に倒れたけど。レディーキラーじゃないぜ、あれ。って、あれは違う。あん時はしーに飲まされたから、いや待って……あー。解釈違いって言われそうだし。うん、なら――アイスティーって、そもそも知ってるよね?」


 キーがじゃらじゃら。少しだけ声に感情が混じっていた。先輩らしくない態度に首を傾げる。


「冷たい……紅茶?」


「…………、そうかもね」


 どうやら違うらしい。声が戻った。


「まあ、なんでも良いや。それで、本題。君が質問していた事はなんだったかな?」


 凭れる倒木の下はなにか石が積み重なっている。蓋のような、そう、雨風を防ぐ小屋が倒壊した成れ果てのようだった。そんな所に先輩は腰を預けている、凄く億劫な目で見ている。


「……。……っ。えっと、結局……、なにを調べたいんです……?」


「調べ物だよ、何度か言ったけどな……?」


 先輩は空ばかり眺めようとする。


「だから、なんなんですか? 調べ物ってっ」


「調べ物さ、義務とか気紛れじゃない。これも教えたけどな……?」


 先輩はどうしてか入道雲を見ている。


「だからぁ……なにを調べているんですかってっ。人をそーして茶化してばっかりじゃなくて、教えてくださいよっ」


「調べ物だ、後悔しながらやってるね。これも君には伝えてるけどな……?」


 空、蝉が一匹飛んで。先輩の黒い瞳に森の色が反射していた。


「だからっ! なにをッ――」


 先輩が不意に指差した。次に、見た。


 誰を。


 『私』を。


しらべもの・・・・・


 気付いたら、腰が引けてた。背中が冷えて、ぞわっと産毛が逆立った。足に力が入らなくて、その場にへにゃって腰を打ち付けた。痛いって思うより、先輩の目が、心底に怖かった。


 じゃらじゃら。目線の先に吊るした鍵とアニメマスコット。


「これをくれた後輩は、三日前から失踪しているんだよ。名前は――あんまり呼び合う関係でもなかったけれども、覚えてはいてね――組紐 珈くみひも かんざしちゃん、僕は珈琲ちゃんって呼んでたけどさ」


「……、……」


「珈琲ちゃん、これは彼女の名前がほんと綺麗だから思い付いた呼び方でさ。大和撫子な、凄く大人しい子だね。背が小さくて、でも勝ち気な江戸っ子だったんだけど……知り合ってるよね、僕の『後輩』に」


 無機質な目玉。機械仕掛けの目玉が私を見ている。観察している。


「…………は、い」


 絞り出した声に、じゃらじゃらと容赦がない音が邪魔をした。


「そう、珈琲ちゃんとはそこそこに付き合いがあったんだ。まあ、僕は『先輩』で珈琲ちゃんは『後輩』だった訳だし。なんだっけ、そう、登山倶楽部のね――君さ、この山を僕が知らない訳ないだろ」


「…………」


「知ってる? この神社ってさ、今の時期こんなにも草だらけなんだよ」


「…………」


 先輩はだからって見渡さない、私を見ている。揺れない、ブレない。


「知ってる? この神社ってさ、正面からじゃ神社だなんて思えないんだよ。何故か? 簡単さ、鳥居が倒れて埋まってるから。それに、とうの昔に社もぺしゃんこで神社だなんて思えない。ああ、それとも草木で見えない石畳でも引っ張り出すのかい? 悪くないね、でも君は『知ってる』、そうじゃあないな」


「…………え、絵馬が」


「苦し紛れだね、縦しんばそうだと仮定しようか。 それで? 君はどうやって鳥居を跨ぐ前に絵馬に気付けるんだろう? 君の背じゃ見えないのは確認したんだけどな……合理的で論理的な回答をしなくちゃ駄目だろ? 子供二十歳未満じゃねえんだからさ」


 じゃらじゃら。金属、アクセサリー。声は、冷たい。でも、責める口振りでも攻める感じはしない。徹底した無機質、人っぽくなくて、人っぽい声。先輩の声は、私をじんわりと貫いていた。


「それに君、絵馬を指し示した時になんでウリ坊に気付かないんだ? 有り得ないね、まるで『絵馬があっちにあるのを知っていて』尚且つ、行って欲しくない方向から避ける為の『誘導』みたいだ」


「っ…………」


「となると、仮定しよう。君は神社であるのを知っていた、君は知りながら知らない振りをしていた、この間を結ぶのは合理的で論理的でもない『感情』だけどね。だったら、この僕が座る『井戸』の中にはなにがあるだろう?」


「……、ちが、ちがう。わざとじゃっ! わざとじゃっないッ!」


 私は、立ち上がれた。逃げたいのに、でも、先輩の目から逃げられないから。


 じゃらじゃらと。じゃらじゃらと。じゃらじゃらと。


「それ、ヤメロてよッ!」


 静かになった。


「僕は後悔してるんだよ。もし君が、そうだな……登山倶楽部の珈琲ちゃんの友人で、縁あって登山倶楽部行きつけの推し山に出掛けたとして、たまたまなにかがあって井戸に『突き落とした』として」


「……わ、私は悪くないッ。ここは、電波も、届かないしッ! こ、こわくて。私、わた、私こわくてッ」


 先輩に近付いた。途端。視界に火花。瞬き。


 地面、あれ、空が右にある。あれ、地面が左側。なん。痛。痛い。顔が痛い。


「時代を舐めんなよ、此処は圏外でもねえさ。ガラケーでもちゃんと繋がってんだよ、確認した限りその『線』はないな。ほら、次はどうする?」


 私は、そうか、転けたんだ。転けて、突っ伏して、眉間から血が出てる。


「わ、わたし、たすけよ、うとしたッ! したの、したのよッ! でも、なんもないのッ! なにも、ここにはッ!」


「いや、社には注連縄があるからね。ほら、鈴を鳴らす為の紐も、倒壊していているから『簡単に持ってこれる』けど? あー、いや、そうだ、概略的な思考をして処理していたのかも知れないな? うん、確かに、そうなると詳細に情報は処理出来ないのも理解が出来る。じゃあなんで――『会いに来たんだお前?』」


「……ち、ちが、違うの。わ、私は……」


「『私は助けようとした被害者』とでも宣うつもりなら、僕が『犯罪を犯す』のも厭わないって宣言した事を思い出せ。僕はね『君』に『用』がない」


 先輩。違うの。先輩。


 先輩、ああ、先輩。違う。違う。


 私は、唯、泣いていた。


「僕は『君』がどうだって良いけど『優しい』から、今までの全てを、注釈を付けて概略なんざせずに詳細に思い出したら良いさ。僕はずっと、君に言ってんだから。理解してないなら、理解出来るように言ってあげるよ?」


 先輩は。先輩。あ、あ。ああ。どうして。違う。違うの。こんな。こんなつもりじゃない。


「僕には希少な『後輩』だった珈琲ちゃんじゃなくて、誰とも知れん『赤の他人』なお前が死ねば良かったのにってね――――やっぱり、碌でもないな」


 某日――夏――憂鬱の在処。


 その事件は、それなりに話題になって。


 そして、人の噂は時間が流して終わる。


 それは『先輩』と『後輩』の話。


 或いは『僕』と『他人』の話だった。

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