エーテル・アカデミーの住人へ
1話 鉄の律動と紅の予兆
階段を登り切った瞬間、駅のホーム全体が視界に広がった。
石と鉄でできている床はかすかに湿っている。吹き込む冷気が、露出した肌の毛穴を小さく刺す。ホームの中心に立つ、小型の時計塔は歴史が静止しているように見える。
しかし、存在感はなによりも強く、空を切り込む黒い影を落としていた。
光を受けた鉄柱が淡い銀色に変色して、瞳に入り込んでくる。
重厚な蒸気機関の独特な鉄の香りが鼻を刺激させようと、空気の層と絡みこんでいた。
油と煤の混ざった黒い粒子を混ぜ込んだその香りは、階段を登っている最中からも感じられた。特急蒸気機関車は、一番線に止まっている。
何個かのホームを越えた先だというのに。
温度差が鼻孔と肌を誘惑する。
金属の冷たさと湿った蒸気が交わるこの感覚が、周囲の現実を確かなものにしていた。
俺がいる五番ホームには、まだ到着していなかった。
それでも、ホームには人の気配で埋め尽くされていた。靴底が床をすり潰す音と、制服の布地がこすれ合う微細な摩擦音。さらには、言葉が往来と歩き回っている。これらの無数の要因が絡み合い、この今という時空間を構成している。
そう考えてみれば、案外感慨深いのかもしれない。
すべての行動が影響するとは限らないけれども。
人々の服装が、断片的に映る。深緑、藍、錆色。色に光が吸収されて、光を吸収し、規格化された色合いが鈍く反射している。
ふと、自分の服装も気になった。視線を落とすと、当然に革靴が見える。
深い藍色を基調としたブレザーが、このホームに立っていても違和感を感じさせない。ごく一般的なものだった。匿名性が高いのは喜ばしい。
だが、この深紅のネクタイが、台無しにしている気がしてならない。
視線を元に戻す。
群衆のざわめきが、この空間全体を呼吸させているようだった。
一番線の特急蒸気機関車が音を鳴らして、ここを揺らした。
物理的な振動と騒音が、時間の流れを可視化している。
風が止まる。
人々は動く。
すべての質量は重力に従い、次の一秒に移ろいてこうとする。
「まもなく、五番線に高速度貨物列車が通過いたします」
無機質な声がホーム全体に波を起こさせる。階段付近から離れて、時計台のふもとまで数歩だけ、膝を進める。同じ制服を着ている人が多く見える。わずかに空気の動きが変わった気がする。時計台に背中を預けた途端、目の前の五番線に光と影のストライプが交互に動く。高速度貨物列車が通過したようだ。抜けていく風が余韻となって、吹きあたる。
「エーテル・アカデミーでの生活は楽しみだね」
「そうだね。でも、少し怖いかも」
「なんでさ」
「わからない。なんか、こう、形容しがたい恐怖心があるというか」
「なにそれ」
真横から、そんな会話が聞こえてきた。
俺と目的地が同じようだ。横目で声が聞こえた方へ向くと、二人の女性がはっきりと認識することができた。目線は捉えられなかった。 曖昧な輪郭のみが知覚されているかのようだ。どっちが恐怖心を語ったのはわからない。しかし、一人は手に持つかばんを強く握りしめているのに対し、もう一人は対照的に開放的だ。
次第に二人の会話が遠くなっていく。
物理的な距離以上に、俺の意識が他に浮気するように遠のいていく。あの女性たちと同じかばんを持っている。その中から一冊の書籍を取り出した。表紙には、意図的にブックカバーをかけてある。 他人に読み物を推測されることはない。
もっとも、予想されたって利益は出ないが。
五番線に蒸気機関車が接近する予兆はまだない。
ただ、時間は無為に床に落ちていくだけだった。
書籍を開く。古本屋の実家から許可をもらい、持ち出したものだ。内容はエーテル戦術論について書かれた、門外不出の類だった。エーテルという、含有量が少ない俺に必要なものだった。弱者は知識を蓄えなければ、生存の権利を放棄したのと同義だ。
エーテルを使い、自然の延長線上にある魔法を、学びに行く人間には見えないだろう。俺自身も、まったく思えない。ふさわしい人間がほかにいるだろうに。なのに、アカデミーは、より優秀な候補を蹴落とし、この俺を合格させた。
意図が知りたくてたまらない。
物理的な変化はない。
音もなく、ページを捲り、文章を脳内で解析していく。どんな難しいものでも、根本は簡単だったりする。簡単といっても、扱えるのはまた別問題でしかない。
欺瞞の技術を覚えていても、実際に使えなかったら意味はない。
その時、空気の流れが変わった気がする。思考のベクトルが書籍から外界へ戻ると、再び外部の音が拾い始めている。騒がしいほどに脳を包み込んでくる。書籍を閉じて、かばんに戻すと、ホーム内に聞いたことのある無機質な声が再び響く。
「まもなく、五番線に電車が到着いたします」
響き渡った。
蒸気機関車独特の、重い産業の軋みが聞こえてくる。
時計塔から背中を離すと、視点が一瞬床の方を向いた。視点を戻すと、目の前には。茶色の鋼製客車が重々しく止まっている。ドアが開く。人々が下りてくる。
帽子を深く被る初老らしい人と、華奢な女性。
様々な人間が駅のホームに溢れ出てくる。
出し切った後、俺はようやく乗れた。一番近くの窓側の席に腰を下ろした。
騒がしい。この一言に尽きる。
景色は当然ながら静止したまま変わらない。
だが、その無変化の魅惑さの正体が無性に知りたくなる。
足音が客車の中を歩き回る。外見は鋼製ではあったが、中身は温もりと冷気を長年経験してきた、重厚な木製だった。
アカデミーにつくまで、快適に過ごせそうだ。
一つの不安要素を取り切ることができたのは、歓迎すべき誤算だった。
人々は、人の隣に座りたくない。結果として、俺の隣には誰も座らず、のびのびと過ごせそうだ。優しい風が混じる。この距離感に、嫌味は含まれていない。
まともだ。
扉は音を立てた。その時、空気が外にも内にも見えない形で圧縮され、解放される。一つ、大きな音が鳴る。そして、蒸気機関車は客車を引き連れて発進した。一定リズムで鳴る、線路のつなぎ目は心地の良い、規則正しいリズムを刻んでいた。
もう一度、かばんの中から書籍を取り出した。やることは変わらない。一人で静かに、自己への学習を課すだけだ。喋り声も聞こえてくる。しかし、それすらも、一つのアクセントとなり、蒸気機関車のリズムと同調し、融和していく。
外の景色も、たまに見る。
車窓に映るのは、単調な田園風景だ。小さな木造建築と畑が流れていく。こうも、豊かな外を見ていると、呼吸が落ち着いてくる。頭部が揺らされるが、蒸気機関車に限らず、物理法則に基づいた乗り物の宿命だ。特に気にすることはない。
ページを捲る。
そこには、戦域情報の解析が、戦闘において絶対的な重要性を持つことが示される。
文字情報への感度が極限まで高まり、音響を排除し始めたころ。
隣の空間の圧が変化した。音を鳴らしたと思えば、次の秒には振動がやってくる。
書籍は、手の中で水気を失ったように、無力に滑り落ちた。
意識が、強制的に現世へ引き戻される。
窓の向こう、景色は停止していた。蒸気機関車が止まったようだ。しかし、目的地のエーテル・アカデミーは終着点。物理的な故障の予兆はない。乗客が乗ってきている。この一事が、ここが終着点ではないことを明確に教えてくれた。
落ちた書籍を拾うために、体躯を丸めた。背中が伸展していくのを感じる。一種の物理運動だ。書籍に手がつくとき、別の手が、空間を滑るように伸びてくる。そして、俺の指先と、その手の指先がほぼ同時に、書籍の表紙に触れた。
構わず、書籍を掴み直そうとした瞬間、俺よりも先にそれは拾い上げられてしまう。
緩やかな軌道で上昇していく。
手に収まった書籍を目で追うと、相手の胸元辺りで静止した。
同じ藍色を基調とした、アカデミーの制服だと理解した。
制服の上端を辿るように顔を見る。そこには、やや大きく、丸みを帯びながらも、目尻がわずかに上がった意思の強い目の形があった。深紅の瞳の中に、客車の照明が橙色に反射している。深紅の髪は肩まで伸びたレイヤーカットと言われるものだった。
右耳にかけられた髪を見るに、橙色から金色に、色が移り変わっている。
俗にいうインナーカラーと呼ばれるものなんだろうか。
ただ言えるのは、とても機能的だなっていう、感想が抱けるものだ。
胸元がわずか膨らんでいたことを倫理的に考量すると、俺と同じスラックスを履いていたとはいえ、女性なんだろうか。
「君は、将来的に軍の参謀として働きたいの?」
急にそんなことを話してくる。
硬質で、張りのある声だった。
そして、蒸気機関車が客車を牽引する物理的な衝撃で、ほぼ同時に発進した。
後ろへ押される感覚が芽生えたからだ。
俺が言葉を選んでいると、「どうなのさ」と遠慮なく再び問いを投げかけてくる。
「いや、なる気はない」
断りの姿勢を見せた。
意外だと、言わんばかりの視線が当てつけのように降り注いでいた。
地味に視線が痛く感じる。
やめてくれ。
内心の苛立ちは、とても口にできるものではなかった。
すると、俺の書籍に軽く目を通された。
「こんなの読んでおいて、なる気はないんだ。珍しい趣味を持ってるんだね」
肯定なのか皮肉なのか、彼女の意図は測りかねる。書籍のカバー越しに、中身が覗かれる。まるで、自身が覗かされているような、羞恥をしてしまう。小さくつぶやきながら、「解説、難し過ぎない?」なんて聞こえる。
論理的な構造を考えれば、それほど難解な内容ではないだろうに。
「あっ、ごめんね。勝手に読んじゃって。私、セリア・フレイムハート。これも何かの縁だと思うしさ、これからよろしくね」
手を差し出される。差し出された指先からワイシャツの下、皮膚が変質した痕跡が、腕の奥まで続いているのが視認できた。
確証は持てないが。家が火事になったのだろうか。
芯まで燃やされている。物理法則を無視した回復魔法なんて幻想が存在していれば。
なんて、考えてしまう。余計な詮索だった。
「……問題ない。初めまして。名前はヴァリス・レヴァイン。これから、よろしく。フレイムハートさん」
俺は、差し出されたフレイムハートの手を握る。
彼女の瞳の焦点は動いていない。
なぜなのかは論理的な予想もつかない。それほどに、俺の手が汚いのだろうか。
「フレイムハートさん。なんて、初めて言われたよ。でも、心理的な距離を感じるからさ、せめて呼び捨てにしてほしいかな」
あはは、と。小さく笑みを浮かびながら、そう告げる。
「フレイムハート。これでいいだろうか?」
「うん。問題ない。私はヴァリスと呼ぶよ」
契約の締結のようだった。
一度手を上下に振る動作も同タイミングで、独りよがりな物理現象はなかった。
自然と動いてくれた。
まるで、戦友との初対面のような感覚だが、俺としてはそんな風には思えない。
わずかな湿度が張り付いていた。
手のひらに視線を運ぶとき、返却された書籍が視界の端で静止していた。
「これ、返すね。ごめんね、私の着席の衝撃で落ちたようなものだもの」
「大丈夫。この程度で感情が変わるほど、沸点は低くない」
「……ありがとうね。許してくれて」
俺は、フレイムハートから書籍を受け取り、かばんの中にしまった。
その動作をフレイムハートから監視されているような。
そんな非論理的な不安がとりつく。
「読まないの?」
「アカデミーに着いてからでも読めるからね。今は、景色でも眺めてようかなと。三年間は外に出れないんだ。今のうちにフィルターに収めようかなって」
「それもそうだね……アカデミーは全寮制だったね。なら、私もこの目に焼き付けておこうかな。少し、そっちに寄るね」
「好きにすればいい」
腰を動かして、より窓寄りに座る。
あと少し、数センチで客車の壁とふとももが接触しそうだった。動き終わったのを確認したのだろう。尻を座席に擦らせる。ふと、柔らかい香りが鼻を刺激し、脳へ伝達した。
フレイムハートは、息を吐いて、移り変わっていく景色を眺めているのが、横目で分かる。こうやって静かに過ごすのは、物理法則という鳥籠に閉じ込められた、一時的な自由なように思えてきた。常に変化が起きていて飽きが来ない。最高のゲームだ。
「こういう単調な景色の連続は、趣があるって表現で正しいのかな」
いきなり、フレイムハートは問いかけてきた。
しかし、その声にはどこか強度がなく、不安定な音色が混じっていた。
「この景色の連鎖を鑑賞し、主観的に独特な味わいがあると判断したのなら、それは君にとって正しいことだ。俺はフレイムハートの感性を否定しない。もしも、人の感性をっひてしまったとき、それは個人そのものの否定に繋がるから」
人の感性なんて、根源的な個性の領域だ。
それを安易に否定することは、暴力に等しい。
文明的に人権を掲げる社会において、特にそう断定できる。
「そうなんだ。なんか全肯定されると、精神的にむずかゆいな」
「別に、全肯定をしているわけではないじゃない。それに、個人の感性というファクターがあるからこそ、この世界は複雑で面白くなる。そうだろ?」
視線をフレイムハートに配る。これは、単純な問いとして出していない。
一つの問題提起だ。会話としては場に不適合だが、構わない。
目の前にいるフレイムハートの思考構造が、俺の予測範囲内にあるのかが知りたい。
「違わないと思う。この世界は、知性ある生き物の数だけその解釈で彩られていくんだもん。今、流れている風景も、人間を含めた結果でしょ?」
俺と似ていた。
俺は、言葉を返さなかった。
ただ、フレイムハートの瞳に映し出されているであろう景色を、もう一度、俺は見ただけだった。言葉は、情報伝達の役割を終え、その場に霧散する。
それだけで、現時点では充分だろう。
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