Aether Academy
淡雪律
魔法が存在しているからこそ発生する事件
灰色の空は、アカデミーの尖塔を重い布のように覆い隠していた。尖塔の先端は厚い雲の中に消えている。風に揺れる旗も色が失ったように淡く、輪郭を曖昧にしていた。瓦礫の合間を縫うように、水霧がひそかに漂う。湿った空気そのものに、わずかな冷気を含ませている。足元の砂利を踏みしだくたびに、かすかに湿った香りが鼻孔を刺激していた。
その水霧は、ただの水霧ではなかった。どこか生き物めいた、確実な意思を内包しているように見える。瓦礫の隙間を滑るように舞う。そのまま尖塔の影に隠れ、溶けていく。目の前の人影に対峙し、静寂が響く中、遠くで瓦礫が崩れる音が聞こえる。同時に、女性の甲高い声と男性の鈍い声が宙を飛んでいた。
行く当てのない声が、この瞬間を表しているようで、耳を塞ぎたくなる。
火のにおいが空気に混じる。心なしか、息が詰まるような感覚があった。右の上腕から流れる熱を持つ液体が、皮膚を焦がしていく。焦げた紙と木材の焦げ臭い匂いが空気に溶け、舌先に苦みを残した。
あらゆるものが燃え尽きた後で、音ですら認識できない余韻だけが、そこに生き続けている。瓦礫の隙間に、炎の名残が残り続けるように橙色が揺らめく。黒ずんだ煙を天へと細く伸びていた。その煙ですら、やがて空の灰色と同化して消えていく。すべてが凍りついたかのような静止。ただ、遠くの喧騒だけが響き続ける。
「……いつになったら、増援が来るんだ」
声にした途端、喉の奥が焼け付くように痛んだ。鉄の味が口内に満ち、俺は吐き捨てるように血を地面に落とす。赤が瓦礫の上で広がっていく。
だが、口内の味は拭いきれなかった。
右手の中に、髪飾りがあった。紅い羽を模した細工だ。指先には乾いた血がこびりついていた。紅と土のにおいが混ざっていた。握り込むたびに、金属の硬さが痛みを増幅させていた。そう思うのは、単なる感傷だろうか。
その持ち主、フレイムハートは、俺の背後で倒れていた。振り向かずともわかった。土の上に散らばる髪の色で。深紅から橙、そして金へと移り変わる光沢は、かつて陽の下では燃えるようだった。だが、今は泥に沈み、湿った土の粒子がその一筋ごとに貼りついていた。顔は髪に覆われ、呼吸はかすかだった。最悪の予想できた。
「君は、こちら側に立つべき人間ではないのか?」
輪郭は不明瞭だが、声質から男だと認識した。男は、俺の方へと歩いてくる。汚れ一つ被っていない、その姿が、不甲斐なさを増幅させた。できるなら、この場から逃げ出したい。フレイムハートが居る以上、この場から離れるわけにはいかなかった。未来予知がなくとも理解できた。ここで逃げ出せば、必ず後悔する。
「悪いが……お前らの研究を観察する必要性が見当たらないからな」
そう吐き捨てると、相手の額に浅いしわが刻まれた。時間がそこで一度引っかかったように感じた。手元の拳銃が、音を立てて銃口を向けられた。銃口が緑に光りを湛えた。
エーテルが込められているのが嫌でも理解した。
「はっ、容赦ないなお前」
言葉を投げ捨てるように、吐き捨てた。
空気がほんの少しだけ捻られ、金属の先端から、冷たい確信が立ち上った。
引き金の感触は見えずとも確実に感じ取れ、次の瞬間に弾が来ると、身体が察した。風をまとった弾丸は凪のように滑り込み、右足を貫いた。裂けるような音ともに筋線維が断ち切られ、熱と混ざって広がる。
次に左足――同じ正確さで、同じ冷酷さで俺を打ち抜いた。
痛みは単一の火球ではなく、層となって押し寄せた。最初は鋭い刃のように、続いて焼けるような灼熱が血管の内側から燃え上がる。金属の味が口に戻ってきた。
視界から急降下した。足元が地面に遠ざかる感覚と、上半身が重力に従って、落ちる感覚が共存していた。声を出すことすら忘れた。身体が崩れ落ちる瞬間、灰色の空と似た瓦礫のそばに身を投げ出した。
手のひらに残る髪飾りの紅が、血の色と同化しそうに見えた。
「残念だよ」
俺の前までやって来た。額を土から上げる。自覚できるほどに荒くなっている息と、流れる汗がひどく鬱陶しかった。歩くときに蹴られた、砂利の破片が口に触れた。
すべてを投げ出したくなった。
その時、目の前の空間が歪んだ。
黒が、燃えた。
いや、正確に言えば燃焼ではなく、存在自体の凝縮だった。音の前に圧が到達した。空間の膜が裏返るように波打ち、黒い火球が男の胸を正確に穿った。衝突の瞬間、周囲の灰が渦巻くように吸い上がり、視界が暗転した。
弾かれた瞬間が、スローモーションのように引き延ばされた。弾かれた肉の破裂音が遅れて届く。鼻孔を通じて脳に、焦げた肉のにおいを覚える。熱気が頬に触れ、男だった残骸が頬を掠めた。思わず、笑みが浮かぶ。魔法の無情さを再確認した。
視線を発射源へと向けた。
瓦礫の向こう、薄い霧と煙の層の奥に、一つの影が立っていた。
ディープルビーの髪が、曇天の下で風を受けて波打っていた。深紅と黒の中間のようなその色は、光を飲み込みながら、まるで内部で熱源を宿しているように見えた。彼女は男がいたであろう空間に、人差し指をまっすぐ向けていた。その指の先に、黒い残光がなお燻り、空気をかすかに焦がしていた。
リディア・サンダース。担任の、その名前が頭に浮かんだ。現実の層が一枚戻った気がする。目元は影に沈んでいる。表情は見えない。だが、彼女の立つ場所だけが奇妙に明るかった。発生源は足元だった。リディア先生が、こっちに歩み寄ってくる。
瓦礫を踏むたびに、粉塵が小さく跳ね、灰色の霞の中に音が吸収された。彼女の歩調には、重さがなかった。世界そのものが遅れていると錯覚する。
その背後、瓦礫の影で影が揺れた。男が飛び出してきた。喉を裂くような金切り声で叫ぶ。
「お前らのせいだ!」と。
声よりも早く、怒気が空気を殴りつけた。
リディア先生は立ち止まった。振り返ることもなく、わずかに左の肘が後方へ引いた。軽い軌跡。次の瞬間、衝突音。男の顎が跳ね上がり、骨が軋む音が空気を裂いた。口の中から短い息が漏れ、唇が開く。その隙間へ、彼女の指先が静かに向けられた。
瞬間、空気が沈黙した。
男の口腔の奥に、黒い光が生まれた。火ではなかった。熱を伴う闇の塊であった。
その膨張は一拍の間に完結した。
爆ぜた。
圧と閃光が同時に起こり、血と肉片が花弁のように散った。音は鈍く、地に吸い込まれた。首は根元から外れ、原形をとどめていなかった。リディア先生は身体だけになった男を見ることもなく、歩き続けた。
「よく耐えたな」
リディア先生の声は、低く響いた。音というより、空気の震えが直接鼓膜に震えるような感覚だった。視界の端で、彼女の手が伸びてくる。指先が額に触れた。血とほこりの膜を隔てて、その手のひら温度が伝わる。
温かいというよりも、確かな重みを感じる。髪を撫でられるたびに、乾いた土がわずかに舞い、光をかすめた。風は止まり、音が遠のいたようだった。
「とりあえず、仮設まで運ぶ」
リディア先生の声が、沈んだ空気を押して届いた。
音の粒が空気を震わせるたびに、火の粉がわずかに舞い上がる。その言葉の意味を理解するよりも早く、口が動いてしまった。
らしくない。
「フレイムハートが……まだ、生きているから。俺より、彼女を」
声は掠れていた。息とともに血の匂いが漏れ、言葉の半分は空気に吸い込まれた。リディア先生の瞳が沈黙を含んでいた。短い間、風のない沈黙が落ちる。彼女の表情がわずかに動いた。判断の揺らぎだ。きっと、トリアージ――誰かを救うかの線を、頭の中でその線を再計算している。
「――わかった。さすがに、二人を連れていく力はない。また後で戻る」
そう言葉を残すと、リディア先生はセリアを抱き上げた。
手のひらには、最後にフレイムハートを抱き上げたリディア先生の重みが残っていた。
ぽろぽろと、砂利が落ちる。
小さな音が、灰と埃の中で弾き返され、短い残響を作る。
駆け足のリズムが、空気を切り裂き、瓦礫の山に細い線を刻んでいく。
視界の端から、背中が急速に視界の端へと小さくなっていく。音も匂いも、熱も、血の残響も、すべてが一度に押し寄せた後、急速に遠ざかっていった。
俺はただ、目を離さずに見つめた。
さて、どうしたものか。身体の不調は、恒常的な事実として続いていた。回復魔法などという便利な理屈は、この世には存在しない。結局、止血しかない――そう理解しても、腕も足も、言葉ほど簡単に応じないものだ。
動かそうとすれば、電流のような神経信号の過負荷が全身を貫く。色相が反転し、意識を刈り取られそうになる。痛覚が規則的な波形として襲い掛かる。骨の内側で、金属をこするような音がした。それでも、意識は途切れない。むしろ、痛みという強烈な危険信号こそが、俺の意識を強制的につなぎとめている。
その時、頭上に銃弾が走った。金属の薄い刃のように、空気だけが裂け、髪の根元に冷たい風が走った。視線を発射源へと向ける。また一丁の拳銃が、俺に狙いを定めている。
半ば呆れにも似た低い声が、瓦礫の隙間から滑り落ちた。
「まだ生きている人間がいるのか……楽にしてやる」
言葉は短く、空気の密度がほんの少しだけ増した。
反応は先に言葉よりも身体から湧いた。目の前の空間に、水膜を立ち上げる。指先の記憶に従って薄い透明の層がそこに張る。手のひらの奥の神経が、その薄さを伝えてきた。元より少ない俺のエーテルがさらに減り、膜の縁が微かに震える。
だけども、その薄さが逆に利いた。
膜の表面温度が、音もなく急速に引き下げられる。熱が引き抜かれると、空気は静かに冷え、膜は光の反射を変えた。熱を司る火の理が、嫌悪のように後退した。水の理は淡く姿を変え、氷の極薄の層がそこに現れる。鉄の弾丸を完全に止めるつもりはない。だが、致命の一撃を直に受けるまでの時間を稼ぐ――それだけで十分だった。
割れた。
男の動作を追う余裕は、もはや完全に喪失していた。
数少ない光は、破片の中で乱反射を繰り返す。
人が死にかけているというのに。
結晶たちは笑いながら踊っている。
その躍動が、増悪であり、同時に抗いがたい魅力だった。
「耐えたか……」
歩みを進めてくる。
一歩ずつ、間合いを詰めてくる。
砂利を蹴り飛ばしている。宙を舞う小石と砂が目に入りそうになる。瞼を繰り返すたびに、空気の流れは変わっている。同時に、胸の鼓動が早くなっていく。生きたいと願ってるのかもしれない。その衝動を、自ら殴り潰したい衝動にかられた。
冷えた金属が額に当たる。体温が奪われた。改めて無機質の冷徹な無常さを認識する。視線の先には、泥にまみれた指先がわずかに揺れていた。男からの言葉はなかった。
「……俺を殺したって、得るものは何もないだろう」
「命乞いか」
男は空気が漏れるように、その言葉を吐き捨てた。拳銃に揺らぎはなかった。今更、魔法を展開する力はもうなかった。短い人生だったと、しみじみ思う。
これほど呆気なく、無意味に死ぬとは想定もしてなかった。
前世で、どんな過ちを犯せばこうなるのか知りたい。
わずかな力が抜けると、より強く、拳銃を押し付けられる。ここまでくると、銃口から流れてくる空気と水霧が、癒しのように思えてしまう。末期的な認識だ。
「またな」
絶対零度に届くような、辺り一帯に霜を降らせる音だった。額に冷たい金属が触れている限り、俺はなにも成すことができない。視界を暗転させようとしたとき、細かい水滴が辺りに広がっていた。文字どおり、その冷却効果によって灰色の空気が辺りを支配した。
「よくも、私たちの生徒に手を出したわね」
全体的に曲線が強調された人影が、揺られながら立っていた。冷気のためか、髪色も何も見えない。ただ、その手先には額に触れた冷たい感触と同じものを、彼女の手先に握っていると直感することができた。
俺の体には、既存の液体とは異なる粘性を持つ、外部の液体が身体に張り付いていた。
「イレーネか。一端の貴族がなんのようだ」
「私の名前はあなたに呼ばれるために存在していないわ」
イレーネ先生。またもや、アカデミーの教師に助けられたのか。
何枚もの現実のページが巻き戻っていく。俺自身の輪郭が戻っているように思えた。
主観でしかないが。
男は舌打ちを吐き捨てて、空気を切り裂くように腕を上げ、銃口がイレーネ先生へ向けられた。刹那、辺りに色を加えた。
赤という、現状、最も嫌悪する色を空間に焼き付けた。
だが、その影を貫いた銃弾は虚空を切り裂いただけで、何も変わらなかった。
銃弾の軌跡が、霧の中に細いトンネルを作っただけだった。
視線を動かす。どこにイレーネ先生は居るのかと。
俺だけでなく、男の視線もまた、空間を彷徨っていた。
すると、俺の耳元、隣に小さな石ころが滑り込んできた。
視線の上部を遮るように、銃口が覗く。男は前に居る。
ならばここに居るのは。
自然と腕を水平に保つ。
容赦はなかった。
男が俺の方に向いた瞬間、その額を穿たれた。鮮血が潮のように吹出した。
男の血潮を最後に見た瞬間、いつの間にか宙に浮いていた。
お腹には確かな温もりを感じる。
貫かれた傷の熱さではなかった。存在している生理的な証拠を示す熱に過ぎなかった。
小脇に挟まれ担がれている事実に気づいたのは、目線に映る景色だった。
地面は揺れと、胸を叩く振動、そして小さな息遣いが、何よりの証拠だった。
「少し、目を閉じなさい」
告げられた瞬間、目元が暗くなる。ただ、その暗さは心地よかった。疲労なのか、安らぎなのか。その区別はつかなかった。しかし、この言葉に従っていいと俺は感じた。
……なぜ、こうなった。どこで選択を間違えたのか、倫理的に解明して欲しいものだ。何個か検討はついてる。有力な候補は、このアカデミーに入学した、初期選択だろう。
神がいるのであれば、ぜひ、教えて欲しいものだ。
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